本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

わびる

2017-04-26 21:15:42 | 漢字

最近は何だか、

わびるとか謝罪するとか

テレビでよく見かけます。

「わびる」という事も漢字では

侘びるとも、詫びるとも書きます。

本来は「ほこる」とか「おごる」

「志をうしなう」という意味も

あるようです。

人の精神活動が止まり、

志を失う意味ということです。

 

最近の政治家の方も

驕りたかぶって志を失った

としか言いようがありません。

 

謝罪の仕方、ということで

テレビで流れていたのですが、

立っている場合、

体は90度に曲げて、最敬礼

座っている時は、

両ももから手を滑らし

ひざの前で手を重ね頭は

手に付くか付かない程度

頭をつけてといわれたら

頭は畳につける、

というような謝罪の仕方を

教えておられました。

 

その姿を見てふと思ったのですが

私たちが修行の時

必ず五体投地(ごたいとうち)の

礼拝をします。

仏の前に自分の身を投げ出す

ということです。

以前はお正月の拝賀式では

管長様に向かって

正月のご挨拶として五体投地を

していました。

 

仏教では、

お詫びという事ではないですが

頭を下げる、身を投げ出す

という形で言葉が色々あります。

何気なく使っている「南無」

これもインドの言葉でナマステ

といって挨拶の言葉

頭を下げる事です。

それから、「諬首」(けいしゅ)

ということもあります。

『諬首唯識性 万分清浄者』

と、唯識三十頌の最初の言葉です。

それから、

「帰命」(きみょう)ということも

南無という事を日本語訳したものです

 

本来は、

一切をお任せします

という事で五体投地するのです

しかし、

わびる、詫びる …

という事も考えてみると

私達は本当の自分に背きながら

生きています。

だから苦しむのです。

自己に背き、仏に背き

であれば、

本来の自己にお詫びして

仏にお侘びしながら

生きているのが私達の姿です

 

仏教の場合は

人に謝罪するというよりも

本当の自分に向かって

お詫びし、謝罪しているとも

いえないことはないのでは

ないかと思います

 

自己を見つめるといっても

煩悩だらけの自分を見たら

ぞっとするかもしれません

しかし、

よく見てみるとこんなにも

自分の煩悩の深さに

よくぞ見つけてくれたと

感動するかもしれません。

 

修行では

一つの行の始まりには

必ず百礼(ひゃくらい)といって

五体投地を百回します

一日三座であれば300回

ということです。

この礼拝(らいはい)は修行が

終るまで続くのです

 

それほど、強情我慢の心の根は

深いともいえるのです。

 

お詫びするということも

よくよく考えてみれば

おもしろいものです。

 

 

 

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