「モラトリアム」
本来は経済用語でしょうか、
債務の履行を延期する。支払い猶予
というような意味があります。
エリクソンという方が心理学の
言葉としても使われ
「モラトリアム人間」というように
人間が成長して、なお社会的義務の
遂行を猶予される期間。
と辞書にはあります。
つまり、
決断することを猶予する、
いつも猶予している。
自分の全身をかけて一つのことに
打ちこんでいくような生活姿勢
というものがない。
どっちに転んでも大丈夫なように
いつも斜に構えている。
チャンスを与えられても
それを活かそうとしない。
なにかしら、そういう若者が
増えてきたような気がします。
煩悩の中にも
「疑」ということと「不信」
ということがあります。
何でも疑ってかかる、
それと信じないという不信
どちらも似ています。
「疑」は
根本煩悩に属し、
貪・瞋・痴・慢・疑・悪見
というのが根本煩悩、
「不信」は
大随煩悩に属しています
これには八つあり
掉挙(じょうご)と惛沈(こんじん)
不信と並びに懈怠と放逸と
及び失念と、散乱と不正知となり
というように出ています。
「疑」という煩悩は範囲が広い
だから、
ある面では疑うということは
その疑いが晴れたら、
その心は信に変わることがあります。
しかし、
「不信」は非常に積極的というか
無神論とでもいうか
真理に対して積極的に否定する
本当の事実とか、価値あるもの、
値打ちあるものを否定する。
否定だけならいいのですが
それによって、
人間の心が穢れてくる
心が透明にならないということに
なってきます。
と同時に、何もやる気がない
という心になってくることが
不信ということの怖いことです。
人間を立ち上がらせない。
理屈ばっかり言って、怠け者
非生産的な存在、
生活が非生産的になる。
そのことが「不信」という煩悩の
一番恐ろしいところです。
お経には、
「不信は惰の依になる」
と書いてあります。
懶惰とあるように怠けの元
になるということです。
ある一面では、
モラトリアム人間というのは
いつも斜に構えて
本当のことを信じようとしない
いつも猶予している
決断を先延ばしにしている
そういって、
自分は怠けの張本人になっている
ある種のニヒリズムに陥っている
そして一歩を踏み出そうとしない
というようなことになるのでは、
仏教もさとりという美しい面を
見つめていくのもだいじですが
人間の煩悩の相(すがた)を
明らかにしていくのも
大切な方向だと思います。
そっと隠していた
自分の心をそこまでめくって
明らかにするか、?
もうこのくらいで止めて
と言いたいくらい
事細かにもらさないように
煩悩のあり方を見つめていくのが
「唯識」という経典です。
「モラトリアム」
経済面では今の
『東芝』のようでもあり、
なかなか決算ができない
猶予されている。
また原発では、
稼動の禁止措置ということにも
使われるようで、
心理学的には、
社会的義務を猶予されている
本当に幅広い言葉です。