仏教では同じ文字でも
読み方も違えば意味も違ってきます。
利益と書いて、
仏教では「ごりやく」
普通には「りえき」です。
意味合いも似てるようで
微妙に違ってきます。
また、
もとは同じことばでも
私たちが勝手に取り違えている
言葉もあります。
「因縁」と「縁起」
訳された時代によって
因縁ともいい縁起ともいいます。
しかし、
私たちは「縁起がいい」
というように縁起というと
何か良いことがあった時に使い
「因縁」というと
因縁が深いとか
妙に悪い意味で使うようです。
「虚無」という言葉も
普通には「きょむ」といい
虚無主義と言えばニヒリズムです。
経典の中には否定の言葉が
たくさん出てきます。
無とか空とか、不という言葉もあり
非ということも出てきます。
般若心経にも出てくる言葉です。
無と空よく似ています。
しかし、厳密にするために
「空」のことを虚無(こむ)と
言います。
否定していることは同じなのですが
否定している内容が違う
私たちの執着(しゅうじゃく)を
否定しているのが「空」で
これを虚無(こむ)といいます。
それに対して、
真理を否定しているのが
「虚無」(きょむ)ということになります。
真理を否定しているということは
我執に立っているということです。
自分の意見を絶対と思い
それに固執して動こうとしない
自分の意見を曲げようとしない
そうすると
心が汚れてきて暗くなる
心が軽やかでない、
ということがあります。
お釈迦様も、
有に迷っている人間には空を説いて
夢から覚めさせればよい、
と言われる。
けれども、夢もない人間は
どうしようもないと
嘆かれたという。
無に迷っている人間、
無を握って離さない人間、
これにはいくら空を説いても
駄目である、
と言われたということです。
ニヒリズムのことを
仏教では「悪趣空」といっています。
同じ「虚無」でも、
私たちが使う言葉と
仏教でいうう言葉とは
まったく内容が別ということが
あるようです。
仏のことを
「虚無之身(こむのしん)
無極之体(むごくのたい)」
という表現もとります。
私たちの執着の心を否定した
身体ということでしょう。
「執着」ということが
一番きついのです。
煩悩よりも、
煩悩が悪いと言いますが
一番私たちを悩ますのは
煩悩よりも執着という
物事に固執して離さない
そのことで一番苦しむようです。