「義」 羊へんの字です。
羊に我と書いて義が出来ています。
美しい舞の姿から、美しい礼をする、
そこから、
正しいみちすじ、
公のためにする心がけ、
という意味になってきたようです。
十地経のなかに
繰り返し「義」という字が出てきます。
たとえば、
「善思義三昧」とか
「分別義蔵三昧」 「擇一切義三昧」
「種種義蔵世間涅槃門菩薩三昧」
などなど、
三昧といってもいろいろな種類の
三昧があるのです。
そこに一つずつ「義」
が入っています。
最近、特に気になることがあります。
いろいろな問題が起こるのに
だれも責任を足らないような気がするのです。
第三者委員会とか作って
だれの責任かをぼやかしてしまう。
「怒りは敵と思え」
という言葉もありますが、
「義憤」ということもあります。
私(わたくし)的ないかりでなく、
正義ということに立った怒りも
あるのではないかと思います。
義という言葉も幅広く使われ、
任侠の世界ではないですけど
「義理がすたればこの世は闇よ」
という歌もあります。
また、
「赤穂義士」というふうにも使われ、
戦争の方面では
ある種間違った使われ方もしたようです。
仏教では、
「義」はサンスクリットのアルタarthaの
訳になり、
意味、道理、意義、
正しい伝統の教えを正義(しょうぎ)
そうでないものを不正義、邪義
といいます。
「了義経」というお経は
究極の道理を現しているという
意味で了義というようです。
ですから、
経典では「義」という字は
とても大切な意味があります。
マザーテレサは
「愛の反対は無関心」
とおっしゃっています。
この無責任な世の中に
注意深く関心を持って見つめていく
それが愛であり
責任ということの一つの取り方
取り返しのつかないことをしてしまって
責任をとれと言われても
取れるはずはありません。
ただ責任感を感じ取る。
その責任感をどう受け止めるか
そのことも一つの責任の
取り方ではないかと思います。