「家内には、なんとも
頭があがりません!!」
ということを、よく?ときどき
聞くことがあります。
と言う、私も頭があがりません。
しかし、よく考えてみると
実に、いい言葉だと思うのです。
昔、三人の武将の性格を
表すたとえとして、
こういう歌があります。
「鳴かぬなら 殺してしまえ
ホトトギス」
これは信長です。
自分の思うようにならなかったら
殺してしまえと、
「鳴かぬなら 鳴かしてみせよう
ホトトギス」
これは秀吉です。
何でも自分の実力でやってきて
この世のなかに自分に出来ない
ものはないという自信というか
驕りから出た言葉でしょう。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう
ホトトギス」
これは家康です。
人の一生は重荷を負うて
遠き道をゆくが如し、
という人生訓にもあるように
堪え忍ぶということを
自分の戒めとして戦乱を
生き抜いてこられた言葉です。
同じような言葉で、
信仰の深さを表した言葉があります。
「下げる頭」
これは比叡山を開いた最澄
伝教大師のことです。
自分を超えた仏に対しては
頭を下げると、
自分の努力の修行によって
見出された境地でしょう。
「下がる頭」
これは知恩院を開いた
浄土宗の開祖・法然です。
阿弥陀さまを目の当たりにして
思わず頭が下がってしまう。
他力という浄土宗を開かれた
法然の、下げるというのは
自力聖道門で自力の残滓が
まだある。
そうではなく、自然と頭が下がってくる
それが他力ではないかと、
「上がらぬ頭」
これは親鸞聖人です。
浄土真宗を開かれた。
下げるとか下がるとか
そんなことではない、
もう仏の前に出ると
頭すら上げることができないほどの
自己否定の心境です。
煩悩に対する無条件降伏
みたいなものでしょう。
九条武子さんの歌に
「いだかれてありともしらず
われ反抗す大いなるみ手に」
とあります。
背いて反抗してみて
やっと、自分は仏さまの
手の上にいたのだと気づかされる
背きつつ近づくということがあります
信仰もすんなりいくのではなく
背いてみて初めて
ああそうだったかと
頷かされることがあるのです。
自分の生かされている背景
バックボーンを知ると、
そこには自分ひとりで
生きているのではなく、
私たちを産み育ててくれた
多くのご先祖様となられた
多くの人たち、
そして、私たちを取り巻く
あらゆる環境や生き物
もう自分が生きているのではなく
一切の条件のなかに
活かされている、という実感
そこには
下げるとか、下がるという
おこがましさではなく、
すべての生きとし生けるもの
そして人類という人間の流れ
そのようなありとあらゆる
条件のもとに活かされている。
そう考えた時
「上がらぬ頭」
ということがでてくるようです。
一切のものに対して
頭があがりません!!
ということでしょう。
そう考えると、
「頭があがりません!!」
ということはとても大切な言葉の
ように思えてきます。