本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

「 仏 法 僧 」

2013-07-30 21:24:04 | 住職の活動日記

 仏教の根幹です。

『 仏 ・ 法 ・ 僧 』  ( ぶっぽうそう )

聖徳太子も 17条の憲法で、

 「 篤く三宝を敬え

   三宝とは仏法僧なり 」

と述べておられます。

 

 今日ふと気になったのが、

『 法 』  という字なのです。

「 仏 」 はインドの言葉で ブッダの音写です。

「 僧 」 も、サンガという言葉を音写して僧という字に当てたのです。

「 法 」 だけが 「 ダルマ ・ ダンマ 」 をあえて

「 法 」 という言葉に訳したのです。

 

 「 法 」 と聞くと法律とか方法とか作法いう言葉が思い浮かびます。

( さんずい ) がついているのが不思議に思いました。

早速辞書を引いてみると、

本来は、

 ふせぐ、という意味からきているようです。

堤防で囲まれた水の平らかなさまの意味だったのです。

そこから、公平というふうに借用され、

訴訟を裁くという意味になってきました。

 

なるほど !!

 

 ダルマ という言葉は 「 法 」 と訳すには

それだけでは納まりきれない感じがします。

他の二つ 「 仏 と 僧 」 も

本来の意味と今私たちが使っている意味とでは

少し隔たりがあるようにも思います。

 「 僧 」 ということも、

「 共同体 」 的なニュアンスなのですが、

もっぱら、お坊さんの意味として使われています。

 

法ということについて、

ある本では、

 「 法が見出されぬときは、

   人間の意見が出てくる。

   一人の意見が出れば、

   それに対する反対意見が出てくるものです。

   法を広めるということもありますが、

   それは、その教えは人間を奴隷にするものです。

   人間は、法に触れない限り、

   必ず奴隷になるものです。

   若い人は仏法も何も信じない、

   といっていますが、

   それは自分の理知を信じているのです。

   誰のいうことも聞かぬということは

   自ら己の理知の奴隷になっているのです。

   理知ははからいです。

   はからいは必ず行き詰る。

   人間は偉大に見えてもなにかの奴隷になっているものです。」

 

というようなことがあって、

法ということも、法律的なニュアンスではなく、

人間知らず知らずのうちに何かの奴隷になっているものです。

その自分の固執を打ち破っていくものが

「 法 」 という内容を含んだもののように思います。

 

 人間、 本当のことを知らないと

 知らないという罪を犯します。

 そして、それだけにとどまらず、

 本当でないものを本当と信じてしまう

 という、二つの罪を犯してしまいます。

 

本当の事を知っていく、

それが 「 法 」 ということの基準になる。

ウソかまことか、

だから、いろんな事を知るということと

法に触れていくということは

一線を画するものです。

 

 十分にわかっているわけでもないのですが、

「 法 」 ということばが

妙に気になったのです。

 

 

 

 

 

 

コメント
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