本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

久しぶりのおてんとうさま !

2013-07-02 21:59:43 | 住職の活動日記

    久しぶりです。

 

 一時ですが  セミの声も聞こえました。

 

眩しさが気持ちい    

 

    

 

植物たちもうれしそうに日の光を

楽しんでいるようでした。

 

 雨もふらなきゃ、育たない、

雨ばっかりでも枯れてしまう。

 おてんとうさまの光もご馳走です。

陽が照りすぎたら、枯れてしまう。

 

   

 

アジサイも輝いていました。

 

 葉っぱからどんどん栄養を吸収している。

そしてその力を蓄え、冬に備える。

葉を落とし、たくわえた養分をじっと育てていく、

そして、次の春には

蓄えた力で芽を膨らまし、

葉を広げ、花を咲かせる。

 

 久しぶりの太陽     

すべてが輝いていました。         

 

 

 

 

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熊本大空襲

2013-07-02 09:18:32 | 住職の活動日記

 1945 ( 昭和20年 ) 7月1日、深夜から未明にかけて

熊本市街地は猛火に包まれた。

 昨日の熊日新聞、

 

     

 

 

「 猛火の記憶 今なお 」

と見出しがあり、

 「 就寝中にB29が襲来 」  とか

 「 焼夷弾が雨のように 」

 「 救護所に次々負傷者 」

と、いうことでその体験談を書いておられます。

 

  私はまだ生まれておりませんでした。

しかし、その話は父や祖父からよく聞かされました。

当院にも2発焼夷弾が落ちました。

 その頃の父や祖父は勇敢だったのです。

なんと、その焼夷弾を床下にもぐって

竹箒や筵で叩きながら消し止めたというのです。

おかげで、当院は焼けずにすみました。

 庫裏を建て直すまで、お風呂場の脱衣所には

焼夷弾で穴が開いた所を板で塞いでありました。

 もう一発は裏庭の築山 ( 富士山に似せた山があったのです )

のてっぺんのコンクリとの部分に当たり、

その焼夷弾が弾みで横に飛び、

これも床下で燃え広がったそうです。

さいわい、お寺の床下は屈んで歩けるくらいの高さなので、

必死になって燃え広がる、

焼夷弾の油を消し止めたのでしょう。

 しばらくは、その焼夷弾の残骸を修行大師さまの

花立として利用していました。

 祖父の話によると、

  「 どうも空襲があるようす、

    天井にでも、焼夷弾が引っかかったら

    大変なことになる。

    天井板をみな剥がしなさい。 」

というお達しがあり、大変な思いをして全部取り外したということです。

ところが、焼夷弾の威力たるや、そんなものではなく、

屋根から床の畳まで軽く貫いて、

床下で燃えあがった、ということでした。

 ( よくぞま~ !!  逃げ惑うことなく、

   落ちた       それ 

   と、もぐりこんで  

   よくぞ消し止めていただいたと思います。)

    

 

 そのとき大活躍してくれたのが

『 一切経蔵 』 です。

 

   

 

昭和3年の 「 鉄筋コンクリート造り 」 

それで、熊大の医学部の大切なものは

この建物で預かり、難を逃れたということです。

 

    

 

もう85年ほどの歳月が経ち、風雨にも耐え、

空襲からも大切なものを守ってくれたのです。

 

   

 

鉄筋はシングルで、

型枠に入れて作るという今の作り方ではなく、

左官職人の方が何層にも塗り上げて

作っていかれたようです。

表面は 「 洗い出し 」 という

当時は盛んにこの方法が用いられたのです。

この建物の洗い出しのすごいところは

屋根裏、軒下の部分まで洗い出しで作ってあるところです。

壁とかは比較的やりやすいのですが、

軒下となると、未熟な方ですと全体が

ボッソと落ちてしまいます。

 80年経った今でも、このきれいな外観を保っていることは

その当時の職人さんの腕前には脱帽です。 

 

 今まだ、この建物の強度は立派なもので、

平成4年修理した際に壁のコンクリートをコア抜きしたら

ダイヤモンドカッターの歯が2個もダメになってしまうほどでした。

80年経った今、これだけの強度があるということは

当時の職人さんは いい仕事 をしていたのです ネ 。 

   

 50年を過ぎたコンクリートの劣化が

今問題になっています。

 当院の経蔵も検査してからはや20年が経っています。

果たしてその強度が今もって大丈夫かは  ???

疑問が残るところです。

 

 しかし、戦火にも耐え、このお寺だけが

焼け野原に独りぽつんと建っていたと聞いています。

 

 昭和20年、といえば兄が生まれた年、

6ヶ月の赤ちゃんを抱えての、大変な中での

消火活動だったのでしょう。

 空襲にも焼けず、まだ当時の姿を守りつづけているということは

ほかならぬ、

ご本尊様、ご先祖様のお陰によるものです。

 

  ほんとに、不思議な気がしみじみとしてまいります。 

 

 

 

 

 

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