1945 ( 昭和20年 ) 7月1日、深夜から未明にかけて
熊本市街地は猛火に包まれた。
昨日の熊日新聞、
「 猛火の記憶 今なお 」
と見出しがあり、
「 就寝中にB29が襲来 」 とか
「 焼夷弾が雨のように 」
「 救護所に次々負傷者 」
と、いうことでその体験談を書いておられます。
私はまだ生まれておりませんでした。
しかし、その話は父や祖父からよく聞かされました。
当院にも2発焼夷弾が落ちました。
その頃の父や祖父は勇敢だったのです。
なんと、その焼夷弾を床下にもぐって
竹箒や筵で叩きながら消し止めたというのです。
おかげで、当院は焼けずにすみました。
庫裏を建て直すまで、お風呂場の脱衣所には
焼夷弾で穴が開いた所を板で塞いでありました。
もう一発は裏庭の築山 ( 富士山に似せた山があったのです )
のてっぺんのコンクリとの部分に当たり、
その焼夷弾が弾みで横に飛び、
これも床下で燃え広がったそうです。
さいわい、お寺の床下は屈んで歩けるくらいの高さなので、
必死になって燃え広がる、
焼夷弾の油を消し止めたのでしょう。
しばらくは、その焼夷弾の残骸を修行大師さまの
花立として利用していました。
祖父の話によると、
「 どうも空襲があるようす、
天井にでも、焼夷弾が引っかかったら
大変なことになる。
天井板をみな剥がしなさい。 」
というお達しがあり、大変な思いをして全部取り外したということです。
ところが、焼夷弾の威力たるや、そんなものではなく、
屋根から床の畳まで軽く貫いて、
床下で燃えあがった、ということでした。
( よくぞま~ !! 逃げ惑うことなく、
落ちた それ
と、もぐりこんで
よくぞ消し止めていただいたと思います。)
そのとき大活躍してくれたのが
『 一切経蔵 』 です。
昭和3年の 「 鉄筋コンクリート造り 」
それで、熊大の医学部の大切なものは
この建物で預かり、難を逃れたということです。
もう85年ほどの歳月が経ち、風雨にも耐え、
空襲からも大切なものを守ってくれたのです。
鉄筋はシングルで、
型枠に入れて作るという今の作り方ではなく、
左官職人の方が何層にも塗り上げて
作っていかれたようです。
表面は 「 洗い出し 」 という
当時は盛んにこの方法が用いられたのです。
この建物の洗い出しのすごいところは
屋根裏、軒下の部分まで洗い出しで作ってあるところです。
壁とかは比較的やりやすいのですが、
軒下となると、未熟な方ですと全体が
ボッソと落ちてしまいます。
80年経った今でも、このきれいな外観を保っていることは
その当時の職人さんの腕前には脱帽です。
今まだ、この建物の強度は立派なもので、
平成4年修理した際に壁のコンクリートをコア抜きしたら
ダイヤモンドカッターの歯が2個もダメになってしまうほどでした。
80年経った今、これだけの強度があるということは
当時の職人さんは いい仕事 をしていたのです ネ 。
50年を過ぎたコンクリートの劣化が
今問題になっています。
当院の経蔵も検査してからはや20年が経っています。
果たしてその強度が今もって大丈夫かは ???
疑問が残るところです。
しかし、戦火にも耐え、このお寺だけが
焼け野原に独りぽつんと建っていたと聞いています。
昭和20年、といえば兄が生まれた年、
6ヶ月の赤ちゃんを抱えての、大変な中での
消火活動だったのでしょう。
空襲にも焼けず、まだ当時の姿を守りつづけているということは
ほかならぬ、
ご本尊様、ご先祖様のお陰によるものです。
ほんとに、不思議な気がしみじみとしてまいります。