本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

折り返し地点

2013-07-24 21:56:16 | 住職の活動日記

 同級生もほぼ定年、

人生の折り返し地点ともいわれます。

 しかし、風の便りに小学校の同級生が

二人亡くなった。

 人生80年とすれば、折り返しどころではない。

もうとっくに折り返して、最終版を迎えています。

70年とすれば、すぐそこ  …

リニアモーターカーのようにあっという間に

人生の幕引きがやってきます。

 

 けれども、仏教では死に立って生きているのです。

先日届いた  「 下総たより 」

安田先生の言葉、冒頭から

 「 だんだん白髪頭になってくる。

   白髪が生えても、まだ分からない、

   分からないと生まれた意義を失ってしまう。

   そうすると、生まれてこなかったのと

   同じことになってします。 」

と、ドキッとする言葉から始まっています。

当に自分に言われているようで、

心にグサッと刺さります。

 

 また、「 十地経 」 の中では、

安田先生の言葉でこういう文章に出会いました。

 

 「 到達したものから出発している 」

 

??  と思うのですが、

先日得度した 「 奎良君 」

「 行 」 に入る時の顔つきはまさに覚悟した

仏さんのような顔になっています。

その時には、仏の心がやってきているのです。

到達点である仏の心を頂いて、

修行に励むのです。

そこから、迷いも悩みも始まってきます。 

 更に先生の言葉は続きます。

 

 「 歩むということは歩みだから

   プロセスになりますけど、

   はじめと終わりは一つ。

   終わったものから始まっている。

   一歩一歩というと時間的です  が、

  時間的は実は空間的なんだと、

  こういう意味から言うと、

  一つ一つが絶対的なんだ。

  みな集めて絶対的になるのではない。

  この一つ一つの違ったままが、一歩一歩のままが

  絶対的なんだ。

  だから、一歩一歩歩んで最後に到達するのではない。

  一歩一歩がもう、

  始まりであり終わりであるんだと。

  結論なんか要らない。

  人生の一歩一歩がもう始まりであり、

  終わりであるんだと。

  死んでから浄土というものがあるんじゃない、

  一歩一歩が浄土やと。」

 

人生、本当のことをいえば折り返し地点なんかないのでは、

50年であれば、それはそれで完成している

ただ、一歩一歩歩ということを失くしてしまうと

それは、生まれた意義を失ってしまう。

 

 いよいよ、すざまじく、求道ということの

真剣さが要求されてくる。

 

 先日、武田鉄也さんは、

「 人生は登のは簡単だ。

  上を向いて懸命に努力して登ればいい。

  けど、降りるときは、

  勢いはつくし、視野は広がるし、

  よほど注意しないとこけてしまう。」

ともおっしゃっていました。

 

 今の自分にとって、

求道にいそしむ環境をいただいたことは

何よりも有り難いことだと思っています。

 

 ウロウロせずに一歩一歩歩むしかない !!!

 

 

 

コメント
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