同級生もほぼ定年、
人生の折り返し地点ともいわれます。
しかし、風の便りに小学校の同級生が
二人亡くなった。
人生80年とすれば、折り返しどころではない。
もうとっくに折り返して、最終版を迎えています。
70年とすれば、すぐそこ …
リニアモーターカーのようにあっという間に
人生の幕引きがやってきます。
けれども、仏教では死に立って生きているのです。
先日届いた 「 下総たより 」
安田先生の言葉、冒頭から
「 だんだん白髪頭になってくる。
白髪が生えても、まだ分からない、
分からないと生まれた意義を失ってしまう。
そうすると、生まれてこなかったのと
同じことになってします。 」
と、ドキッとする言葉から始まっています。
当に自分に言われているようで、
心にグサッと刺さります。
また、「 十地経 」 の中では、
安田先生の言葉でこういう文章に出会いました。
「 到達したものから出発している 」
?? と思うのですが、
先日得度した 「 奎良君 」
「 行 」 に入る時の顔つきはまさに覚悟した
仏さんのような顔になっています。
その時には、仏の心がやってきているのです。
到達点である仏の心を頂いて、
修行に励むのです。
そこから、迷いも悩みも始まってきます。
更に先生の言葉は続きます。
「 歩むということは歩みだから
プロセスになりますけど、
はじめと終わりは一つ。
終わったものから始まっている。
一歩一歩というと時間的です が、
時間的は実は空間的なんだと、
こういう意味から言うと、
一つ一つが絶対的なんだ。
みな集めて絶対的になるのではない。
この一つ一つの違ったままが、一歩一歩のままが
絶対的なんだ。
だから、一歩一歩歩んで最後に到達するのではない。
一歩一歩がもう、
始まりであり終わりであるんだと。
結論なんか要らない。
人生の一歩一歩がもう始まりであり、
終わりであるんだと。
死んでから浄土というものがあるんじゃない、
一歩一歩が浄土やと。」
人生、本当のことをいえば折り返し地点なんかないのでは、
50年であれば、それはそれで完成している
ただ、一歩一歩歩ということを失くしてしまうと
それは、生まれた意義を失ってしまう。
いよいよ、すざまじく、求道ということの
真剣さが要求されてくる。
先日、武田鉄也さんは、
「 人生は登のは簡単だ。
上を向いて懸命に努力して登ればいい。
けど、降りるときは、
勢いはつくし、視野は広がるし、
よほど注意しないとこけてしまう。」
ともおっしゃっていました。
今の自分にとって、
求道にいそしむ環境をいただいたことは
何よりも有り難いことだと思っています。
ウロウロせずに一歩一歩歩むしかない !!!