本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

花 見事に咲きぬ … やがて うつろいぬ

2013-04-14 17:22:44 | 住職の活動日記

 見事に咲いた 「 牡丹の花 」

何回か、咲いたりつぼんだりを繰り返し、

どうも、今日を限りのようです。

 

   

 

花びらも、少し皺がよってきました。

 

   

 

今年の見納めか ?!

 

と思っていましたら、

4時半ごろより生憎の雨、

それも結構きつい !!

 

   

 

雨にうたれながらも

 

 『 花 見事に咲きぬ 誇りもせで

     やがて うつろいぬ

   つぶやきもせで 』

 

 

   

 

 

人が見ようと見まいと、

精一杯咲いてくれました。

 今日を限りかもしれません。

 

 命の限り  香りを漂わせ

 

今日の雨で散っていくのかもしれません。

 

   ただただ  感謝 

 

 

 

 

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今週の言葉 4/15~4/21 「 有漏路より無漏路へ帰る一休み … 」

2013-04-14 15:54:52 | 今週の言葉

有漏路 ( うろじ ) より

 

 無漏路 ( むろじ ) へ帰る

 

     一休み ( ひとやすみ )

 

  雨ふらば降れ 

 

     風ふかば吹け

 

                          一休

 

 

一休さんの歌です。

歌の中にある 「 一休み 」 が 『 一休 』 という

名前の由来でしょうか。

 

 『 漏 』  ( ろ ) ということですが、

「 もれる 」 という意味です。

 人間から意識するしないにかかわらず、

漏れ出てくる、ということで、

煩悩のことを表現しているのです。

 「 漏 」 という使い方もおもしろい、

雨漏りも、最初はポタリ・ポタリですが、

ほっておくと仕舞に家中水びたしになってしまいます。

煩悩も最初はわからないのですが、

気をつけてなかったら、人間煩悩だらけになってしまい、

ついには煩悩につぶされてしまいます。

 

 「 有漏 」  は煩悩がある、ということ

 「 無漏 」  は煩悩が無くなった状態、

ということです。

 

 お経を読んでいますと、

「 人間には有漏しかない 」 と書いてあります。

では、煩悩しかない人間に悟りを開くということはあるのか ??

ところが幸いなことに、

「 無漏の種 」 も宿していると書いてあります。

厳密な言い方ですが、 「 依附 」 ( えぶ ) という

有漏の心にくっついて、本来の無漏の心がある、 と。

そこに、智慧とか信仰が生まれてくると、

それには、お経の最初にあるように

「 如是我聞 」 というように 

『 聞く 』 ということが大切なのです。

 

 玄奘三蔵法師は、それでも厳しく見ておられて、

「 人間のしていることはみんな有漏である。」

「 教えを聞くといっても有漏なのだ。」

けれども、

「 有漏であるけれども、聞法ということは

 無漏を開く唯一のチャンスにもなる。」

とも言っておられます。

 難しい言葉では、

「 聞法も有漏だけれども、

  無漏を開く増上縁にはなる 」

 

 だから、私達にとっても

縁を見つけては教えを聞き続けていくしかないのです。

そのことのみが、

無漏を開く唯一の手がかりになるのです。

 

 そのことを 「 一休さん 」 は

「 有漏路より無漏路へ帰る 」 と、

人間という身体 「 身 」 ( み ) を頂いた

有漏の体を受けた、

ということは、無漏に触れる

唯一のチャンスなのだと。 

だから、人生の荒波はすべて受け止めていこう

ということだと思います。

 「 雨ふらば降れ、風ふかば吹け 」

というのも、のんきな話ではなく、

すべての苦労が 「 有漏の身 」 を持った

人間が無漏になる機会を与えられた

すべての苦労は自分のものとしていく、

という覚悟の歌のようにも思います。

 

 「 有漏 」 「 無漏 」

うろうろ、むろむろ、  と

難しい言葉ですが、

たまにはこういう言葉を受け止めることも大事だと思います。

 

 

 

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