整理していましたら、和紙の便箋を発見 !
このような便箋、もう出す相手もいないか ?
と、 そうだ !
写経をしてみようと、
「 唯識三十頌 」 の写経を始めました。
結構、すらすらと筆も進み、
二十頌のところまでは、昨夜書き終わりました。
唯識も断片的にしか勉強しておらず、
たまたま、縁があって少し講義を聴いただけで、
それから、折に触れて読み進めておりました。
先日は、パソコンで書いてみたのですが、
こうやって筆で書いてみると
新たな発見があるものです。
今まで何気なく聞いていた言葉達、
こういうところにあるのか ??
いろいろ出てくる煩悩の言葉、
書いてみるとまた新たな趣があります。
浅田次郎さんが、感動した文章は
何度も何度も読み返し、
さらにはまた書き写してみる。
ということを話されていました。
なるほど、読んだだけでは見落としてしまいそうな
ことばをたくさん発見できます。
そういうこともあり、
今朝の勤行で、いつも読んでいる
『 理趣経 』 というお経、
今日は、 「 所謂 」 ( いわゆる )
という文字が目に飛び込んできたのです。
お経のなかでは意味的には重要なことではないと思うのですが、
「 いわゆる 」 というように、
説明をされているところと思うのですが、
各段ごとに、この言葉が必ず出てくるのです。
これはいま写経をしている
「 唯識三十頌 」 の中にも出てきます。
『 所謂 』 ( いわゆる ) という説明でもあるし、
お経を読むときのリズムのようなものにもなっていると思います。
『 所謂 』 日本語的には { いわゆる } でしょう、
漢文的には ( しょい ) と読むのでしょうが、
『 理趣経 』 の場合は
所謂 を 「 そうい 」 と読むのです。
写経も夜とか、朝方とか
世間の雑音がしないときのほうが
集中できるようです。