先日投稿したように坂本龍馬を生んだ坂本家九代目、坂本登さんを取材したのが2010年。
その4年半年後に、今度は「東久留米には勝海舟の曾孫さんがいるから取材してほしい」とある方から頼まれました。
何でも、東久留米には50年近く住んでいらっしゃるけれど、勝海舟の子孫であることを名乗られないせいで地元に全く知られていないとのこと。
私はびっくりしました。
歴史に名を遺す師弟の末裔が150年の時を経て、こんなに近くに住んでいらっしゃるとは!と。
勝康(かつやすし)さんが勝海舟四代目の方でした。
勝さんは取材時、84歳になられていましたが、海舟に倣い身体を鍛えていらしたのでかくしゃくとしていらっしゃいました。
テニスに鉄アレイ筋トレ、散歩を欠かさず、背筋真っ直ぐの方でした。
海舟には正妻たみとの間に嫡子の小鹿(ころく)がいましたが、小鹿には男の子がなく伊代、知代という二人の女の子がいました。
小鹿が40歳で急逝したため、海舟はその最晩年伊代と知代に婿養子を迎えました。
家督を継いだ長女、伊代の婿養子は徳川慶喜の十男、精(くわし)でした。
勝康さんは次女知代の五男で、勝家の分家にあたります。
両親から「絶対に先祖の名を汚すな。先祖の名前を吹聴するな」と育てられたそうです。
勝さんが名乗られないのも、両親の戒めがあったからでしょうね。
祖母から聞かされた晩年の海舟は「気難しくて、怖い存在」だったそうです。
勝さんは身内ならではの海舟観をいろいろと話してくださいました。
海舟の父、小吉は喧嘩っ早い暴れん坊で不良旗本として恐れられていたとか。
「そんな父親だと、普通ならグレますよね」と、くくっと笑う勝さんのお顔を思い出します。
しかし、父を反面教師として、海舟は厳しく己の心身を磨いたそうです。
「執念的な努力と鉄壁な意思、肝の据わった度胸、根っからの武士だったと思います」
「眼光鋭く、相手の反応を見て、即どういう人間かを見抜く人。取っつきにくい、一癖も二癖もある嫌なオヤジだったんでしょう(笑)」
中でも交渉により、江戸無血開城を実現させた西郷隆盛とは、お互いが尊敬の念を持ち「無私と至誠」という価値観でつながっていたといいます。
『氷川清話』は晩年、海舟が赤坂氷川の自邸で語った、人物評、時局批判の数々をまとめたもの。
従来の流布本を検討し直し、再編集し2000年に発行された講談社学術文庫です。
海舟の目を通した辛辣な人物評がとても面白い。
けれども西郷隆盛に関しては、ともかく太っ腹で、知識においては自分が優っているが、その大胆識と大誠意にはとても及ばない
とべた褒めしています。
坂本龍馬のことは「彼(ア)れは、おれを殺しにきたやつだが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着(オチツ)いてな、なんとなく
冒しがたい威権があって、よい男だったよ」と。
海舟と龍馬の子孫である勝康さんと坂本登さんが、車で20分余りのところに住んでいらっしゃることに、勝手にロマンを感じています。
お二人に共通するのは偉大な先祖を持つことをひけらかさず、一歩引いたところに静かに佇んでいらっしゃること。
一昔前の日本の男性をみるようで、失礼ながら私はお二方とも大好きで、お会いできた幸運に今さらながら感謝しています。
最近もう一つ、共通点を見つけました。
それは勝さんが息子さんの名前が「舟一郎」と照れ臭そうに言われたことは憶えているのですが、
坂本登さんのお孫さんの名前が「坂本龍哉」と「坂本悠馬」というのをつい先日知りました。
やはり先祖への誇りと思いは深く、つながっていくのでしょうね。
海舟も、そんな複雑な慶喜に辟易しています。
海舟の息子が男子を設けぬまま死んだため、跡取りに慶喜の十男・勝精を養子に迎えます。
海舟が慶喜に願い出たときに、はじめて泣いて海舟の至誠を信じたといいます。
「それからの海舟」著:半藤一利から拾いました。
慶喜と海舟が「相性がよくなかった」とは知りませんでした。
東久留米在住の勝康さんにとって、慶喜十男の精は義理の伯父さんになるわけですね。