ご存知のように江戸を政治の中心地とする上で、神君家康公は天海僧正の類い稀なる風水の知識を取り入れ、四神相応を基本理念とした結界を江戸市中に張り巡らしたのです。
芝東照宮
これにより江戸城の北東にあたる重要な鬼門として浅草の浅草寺を置き、その延長上にこれまた重要な東の叡山として東叡山・寛永寺の造営を寛永年間に完成させました。
一方、江戸の裏鬼門をなす西南には結界を繋ぐ五色不動の一つである「目黒不動」を置き、更に寛永寺から江戸城本丸を繋ぐ直線を延長した所に徳川家菩提寺である増上寺を配したのです。
このように江戸の結界を構築した天海僧正は更に強力な鬼門として日光東照宮を造営し、神となった家康公の力を借りて江戸を守護するための結界を完成させたのです。そして家康公を尊敬してやまない三代将軍家光公の御代に江戸の重要な鬼門である上野寛永寺境内に壮麗な社殿をもつ東照宮を造営、さらには西南の鬼門である増上寺領内に家康公の寿像を祀る社殿「安国殿」を設け、大権現家康公の神力をもって江戸の守護と繁栄を願ったのです。
さて現存する上野東照宮の社殿は創建当時の絢爛豪華な粧いで現代に生きる私たちにも神君家康公の神力を授けてくれています。しかし増上寺の東照宮は長い歴史の中で紆余曲折を経て、その姿は上野東照宮の絢爛さの足元に及ばないほど地味なものになっています。
増上寺の東照宮のそもそもの始まりは、神君家康公の遺言により家康公が自ら造らせたご自分の像である「寿像」を増上寺に祀るための堂を創ったことに始まります。その堂は家康公の院号の頭をとつて「安国殿」と付けられ、家光公によってほぼ現在の東照宮が置かれている場所に壮麗な建造物が造営されたのです。その際に家光公がお手植えされた銀杏の木が今でも残り、樹齢300年の堂々とした姿を見ることができます。
現在の安国殿
江戸時代を通じて増上寺の中の堂宇の一つとし大切に扱われてきましたが、徳川幕府崩壊後の明治になってから大権現を祀る安国殿を神仏分離政策により東照宮と名を改めて、本来の安国殿は家康公の守り本尊である「黒本尊」を祀るため改めて増上寺大殿の脇に移され現在に至っています。
そして家康公の寿像を祀る東照宮は明治、大正、昭和とその壮麗な社殿を引き継いでいったのですが、昭和20年の大空襲により灰燼にきしてしまうのです。その際、御神体の寿像はからくも助かったのですが、現在その所在ははっきりしていません。一説によると増上寺に近い芝大神宮に保管されているらしいのですが真意のほどは謎のままです。尚、寿像のレプリカは両国の江戸博物館に展示されています。
芝東照宮石柱
現在の東照宮の社殿は昭和44年に完成したものです。
賑やかな日比谷通りに面して目立たない存在で東照宮の石柱が立っています。ほとんどの方はここに東照宮が置かれていることすら気付かずに通り過ぎてしまいます。日比谷通りから社殿に続く参道が伸び、その参道に鳥居が立っていることで何らかの神社が置かれていることは認識できます。
東照宮参道
その鳥居には東照宮の扁額が掲げられ、その扁額の文字を書いた人物である「家達」という名前が読み取れます。この人物こそ十五代将軍慶喜公の後の徳川宗家を引き継いだ田安亀之助こと家達氏なのです。
東照宮鳥居
鳥居の扁額
家達氏は幼少時にあの天璋院篤姫が手許に置き、養育をしたことで知られています。明治に入り増上寺に東照宮を勧請したことで、徳川宗家を引き継いだ家達氏が扁額の文字を書いたことはしごく当然のように思われます。
鳥居をくぐり石段を登ると東照宮境内に入ります。まず右手には前述の三代将軍家光公がお手植えの大銀杏の木が目に飛び込んできます。現在この木は都の天然記念物の指定されています。おりからの「江」人気に便乗して、木の根元には「社宝・公孫樹 お江の御子三代将軍家光公お手植え」と書かれた板が置かれています。秋深まり紅葉の季節には、この大銀杏も黄金色に染まり美しい姿を見せてくれます。
東照宮境内
家光公お手植えの銀杏
銀杏越しに見える東京タワー
新しく造営された社殿はこじんまりとした佇まいで、絢爛豪華な装いとは言いがたいのですが、拝殿とその後ろに本殿が連結された造りになっています。彩色も地味で向背部分も極彩色の色使いはまったくありません。
東照宮拝殿
東照宮拝殿
扁額
空襲で焼ける前は、おそらく権現造りの素晴らしい拝幣殿、中門そして本殿が配置されていたことでしょう。この東照宮だけでなく終戦間際の大空襲で増上寺境内の徳川家の壮麗な霊廟群もことごとく灰になってしまいました。当寺には現在、国宝にまで指定された霊廟郡の建造物もわずか二代将軍秀忠公の旧台徳院惣門、十二代将軍家慶公の霊廟前に置かれた二天門など数えるほどしか残っていません。
旧台徳院惣門
現徳川家霊廟前の鋳抜門
もし、これら霊廟群が現代まで残っていたのなら、日光東照宮に匹敵する国宝として私たちの目を楽しませてくれたことでしょう。
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芝東照宮
これにより江戸城の北東にあたる重要な鬼門として浅草の浅草寺を置き、その延長上にこれまた重要な東の叡山として東叡山・寛永寺の造営を寛永年間に完成させました。
一方、江戸の裏鬼門をなす西南には結界を繋ぐ五色不動の一つである「目黒不動」を置き、更に寛永寺から江戸城本丸を繋ぐ直線を延長した所に徳川家菩提寺である増上寺を配したのです。
このように江戸の結界を構築した天海僧正は更に強力な鬼門として日光東照宮を造営し、神となった家康公の力を借りて江戸を守護するための結界を完成させたのです。そして家康公を尊敬してやまない三代将軍家光公の御代に江戸の重要な鬼門である上野寛永寺境内に壮麗な社殿をもつ東照宮を造営、さらには西南の鬼門である増上寺領内に家康公の寿像を祀る社殿「安国殿」を設け、大権現家康公の神力をもって江戸の守護と繁栄を願ったのです。
さて現存する上野東照宮の社殿は創建当時の絢爛豪華な粧いで現代に生きる私たちにも神君家康公の神力を授けてくれています。しかし増上寺の東照宮は長い歴史の中で紆余曲折を経て、その姿は上野東照宮の絢爛さの足元に及ばないほど地味なものになっています。
増上寺の東照宮のそもそもの始まりは、神君家康公の遺言により家康公が自ら造らせたご自分の像である「寿像」を増上寺に祀るための堂を創ったことに始まります。その堂は家康公の院号の頭をとつて「安国殿」と付けられ、家光公によってほぼ現在の東照宮が置かれている場所に壮麗な建造物が造営されたのです。その際に家光公がお手植えされた銀杏の木が今でも残り、樹齢300年の堂々とした姿を見ることができます。
現在の安国殿
江戸時代を通じて増上寺の中の堂宇の一つとし大切に扱われてきましたが、徳川幕府崩壊後の明治になってから大権現を祀る安国殿を神仏分離政策により東照宮と名を改めて、本来の安国殿は家康公の守り本尊である「黒本尊」を祀るため改めて増上寺大殿の脇に移され現在に至っています。
そして家康公の寿像を祀る東照宮は明治、大正、昭和とその壮麗な社殿を引き継いでいったのですが、昭和20年の大空襲により灰燼にきしてしまうのです。その際、御神体の寿像はからくも助かったのですが、現在その所在ははっきりしていません。一説によると増上寺に近い芝大神宮に保管されているらしいのですが真意のほどは謎のままです。尚、寿像のレプリカは両国の江戸博物館に展示されています。
芝東照宮石柱
現在の東照宮の社殿は昭和44年に完成したものです。
賑やかな日比谷通りに面して目立たない存在で東照宮の石柱が立っています。ほとんどの方はここに東照宮が置かれていることすら気付かずに通り過ぎてしまいます。日比谷通りから社殿に続く参道が伸び、その参道に鳥居が立っていることで何らかの神社が置かれていることは認識できます。
東照宮参道
その鳥居には東照宮の扁額が掲げられ、その扁額の文字を書いた人物である「家達」という名前が読み取れます。この人物こそ十五代将軍慶喜公の後の徳川宗家を引き継いだ田安亀之助こと家達氏なのです。
東照宮鳥居
鳥居の扁額
家達氏は幼少時にあの天璋院篤姫が手許に置き、養育をしたことで知られています。明治に入り増上寺に東照宮を勧請したことで、徳川宗家を引き継いだ家達氏が扁額の文字を書いたことはしごく当然のように思われます。
鳥居をくぐり石段を登ると東照宮境内に入ります。まず右手には前述の三代将軍家光公がお手植えの大銀杏の木が目に飛び込んできます。現在この木は都の天然記念物の指定されています。おりからの「江」人気に便乗して、木の根元には「社宝・公孫樹 お江の御子三代将軍家光公お手植え」と書かれた板が置かれています。秋深まり紅葉の季節には、この大銀杏も黄金色に染まり美しい姿を見せてくれます。
東照宮境内
家光公お手植えの銀杏
銀杏越しに見える東京タワー
新しく造営された社殿はこじんまりとした佇まいで、絢爛豪華な装いとは言いがたいのですが、拝殿とその後ろに本殿が連結された造りになっています。彩色も地味で向背部分も極彩色の色使いはまったくありません。
東照宮拝殿
東照宮拝殿
扁額
空襲で焼ける前は、おそらく権現造りの素晴らしい拝幣殿、中門そして本殿が配置されていたことでしょう。この東照宮だけでなく終戦間際の大空襲で増上寺境内の徳川家の壮麗な霊廟群もことごとく灰になってしまいました。当寺には現在、国宝にまで指定された霊廟郡の建造物もわずか二代将軍秀忠公の旧台徳院惣門、十二代将軍家慶公の霊廟前に置かれた二天門など数えるほどしか残っていません。
旧台徳院惣門
現徳川家霊廟前の鋳抜門
もし、これら霊廟群が現代まで残っていたのなら、日光東照宮に匹敵する国宝として私たちの目を楽しませてくれたことでしょう。
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