大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸幕末・激動の歴史を刻むイギリス公使館「東禅寺」に漂う京を思わせる古刹の佇まい

2011年02月14日 12時35分24秒 | 港区・歴史散策
高輪に残る幕末の残照を巡りながら、ふと思い出したのがお江戸の内府に設けられた異国の公使館跡を訪ねてみることです。

幕末といえば尊皇攘夷の掛け声とともに、その最右翼でもあった水戸、長州の藩士や浪士による外国人や外国公館への度重なる襲撃を思い出します。安政5年(1858)6月に幕府は歴史的な日米修好通商条約が違勅という形で締結されるや、同年7月に蘭、露、英、9月には仏と次々に条約を締結していきます。
そして翌年安政6年5月には神奈川、長崎、函館の三港を開き、露、仏、英、蘭、米の五ヶ国に貿易の許可を与える事になったのです。これらはあの安政の大獄が激しさを増している最中の出来事です。

西欧列強との条約調印がなった安政6年から顕著になったのが「夷人斬り」と言われる外国人殺傷事件です。最初の「夷人斬り」は同年7月に起きたロシア艦隊の士官と水夫3名の殺傷事件です。10月にはフランス公使館の清国人、元号が変わり翌年万延元年の正月7日にはイギリス公使館付きの通詞・伝吉が刺殺、そして12月にはハリスの片腕で米国の通訳官ヒュースケンが襲撃され落命するという惨劇が繰り返されます。

東禅寺門前の石柱

そしてここ東禅寺を舞台とした事件が起きたのが文久2年5月(1861)の第一次東禅寺事件と呼ばれる襲撃事件です。イギリスの仮公使館として使われていた東禅寺が水戸浪士ら14名に襲撃されたこの事件は公使オールコックが長崎から日本国内を旅行して江戸に戻ってきた翌日に起こったのです。襲撃理由は夷人が国内を歩き回ったことで「神州が汚された」と考えたから。

さらに1年後の文久3年5月(1862)には同公使館の警備にあたっていた松本藩士が館内に侵入し、水兵2名を殺傷する事件が起こります。これが第二次東禅寺事件と呼ばれるものです。

こんな幕末「夷人斬り」の舞台となった東禅寺は今、150年前の凄惨な事件があったことが嘘のように静かな空気に包まれ、まるで京の古刹が東京にやってきたような雰囲気を漂わせていました。

第一京浜からなだらかな坂道を少し進んだ高台の中腹に位置する門前には「最初のイギリス公使宿館跡」の石柱が建ち、その背後に二天像を従えた山門が威厳を感じさせるように構えています。山門をくぐると木々に覆われた参道が境内へとのびています。この参道を襲撃浪士たちが走りぬけていったのかと思うと感慨深いものがあります。

東禅寺山門
二天像
二天像
境内へつづく参道

境内に入り、眼に飛び込んでくるのが立派な三重塔とご本堂です。ご本堂には海上禅林の額が掲げられています。禅林とあることからこの古刹が禅寺であることがわかります。この海上禅林の名の由来はかつては眼前に江戸湾が広がっていたことから名付けられたようです。幕末の頃、江戸湾の波打ち際は現在のJRが走っている線路の辺りだったのです。東禅寺を背にしてわずか数百メートル先に江戸湾の風向明媚な光景が広がっていたのでしょう。

>鐘楼
本堂
三重塔


特に三重塔は高輪という地の一角にありながらそれほど目だった存在ではないのです。外部の喧噪から隔絶されたような静かな境内は京都の寺に迷いこんだような錯覚に陥ります。

境内俯瞰





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