大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸五之橋・幕末外国人殺傷事件ヒュースケンが眠る光林寺

2011年02月13日 21時49分29秒 | 港区・歴史散策
ペリーの浦賀来航により、幕内は260年の永きに渡る鎖国政策の是非を問う喧喧諤諤の論議が始まります。その魁としてペリー来航の翌年(安政元年/1854)に日米和親条約が締結され、いよいよ日本は西欧列強との本格的な外交が始まります。

そしてついに幕府大老・井伊直弼は違勅を顧みず、米国との間で日米修好条約を調印を皮切りに、堰を切るように西欧列強との間で条約の調印を進めていったのです。

この条約調印に伴い、それまで江戸から離れていた場所に置かれていた各国の公館が江戸市中に移設され、そのほとんどが寺院の中に開設されていきました。そんな各国の公館となっていた寺院がお江戸の高輪に集中していることはそれなりに理由があったはずです。

その大きな理由として、高輪という土地は今でもそうなのですが起伏の多い高台となっているのです。その高台には「石を投げれば寺にあたる」というくらいに寺が密集しているのです。
この土地が高台であることから、天然の要衝として独立性が高く、そのため不穏な行動に対して防衛しやすいという利点があったと考えるべきでしょう。幕府は攘夷が吹き荒れる当時の状況を勘案した結果、高輪の高台に各国の公館を集め、攘夷派の攻撃に対処しようとしたのです。そして幾つかの寺院が公館として選ばれたのです。

幕府の思惑に反して、攘夷派による外国人襲撃と寺院攻撃は次から次へと起こり、その度毎に幕府は各国に陳謝、そして賠償金支払いを繰り返していたのです。

そんな幕末に起きた外国人襲撃事件の中から、今日は初代米国総領事タウンゼント・ハリスに雇われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務め若干28歳で攘夷派志士のよって殺害されたヒュースケンを取り上げてみました。

ヒュースケンが日本にやってきたのは幕末の安政3年(1856)、彼が24歳の頃です。西欧列強が植民地政策を推し進めていた時代に、24歳の若きヒュースケンにとってはまだ見ぬ極東の島国「日本」という国は彼自身の興味と探究心を満たしてくれる恰好の世界だったのではないでしょうか。

大国アメリカの総領事であるハリスの後ろ盾があればこそ、ヒュースケンの若気のいたりともいうべき行動の中に、ある種驕り的な振る舞いもあったのではないでしょうか。その一例として自分の愛馬に跨り、有頂天になって走り回っている様子が絵に残されています。そんな姿を見た攘夷派志士たちはおそらく腹立たしさで煮えくりかえっていたのではないのかと想像します。

そして事件が起こるのです。万延元年(1861)12月、その日、ヒュースケンは芝赤羽接遇所(港区三田)のプロシア使節宿舎でプロシア全権大使オイレンブルグと一緒に食事をしたのでした。食後、アメリカ公使館のある高輪の善福寺へと向うのですが、芝赤羽接遇所を出て百歩足らずのところで攘夷派の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛ら7名の志士に襲われたのです。
幕府の役人が護衛についていながら、いとも簡単に襲われ、外交官が命を落としてしまう参劇に在留外国人たちは恐怖におののいたことでしょう。わずか4年の在日期間、母国に帰ることなく28歳の若さで異国の地で短い生涯を閉じたのです。

ヒュースケンの墓は米国の公使館があった善福寺ではなく、同じ高輪の光林寺に置かれています。これは善福寺では土葬が禁じられていたため、キリスト教徒であるヒュースケンは土葬可能な光林寺に埋葬されたのです。

光林寺山門
光林寺山門


光林寺は古川の流れに架かる五之橋を渡った袂に建っています。黄色の築地塀に歴史を感じさせる山門が迎えてくれます。山門をくぐると正面に立派な装いの「方丈」がど~んと構えています。方丈の庭先の梅の木には冬の陽射しの中で可憐な紅梅の花が静かに揺れています。

方丈
方丈前の梅

寺の境内に入る前に、ヒュースケンの墓の位置を確認しておかないと、見つからないほど墓は簡素なものです。想像を裏切るといってもいいくらいに、墓は隅に追いやられたように侘しく佇んでいます。和洋折衷のような墓石に刻まれた十字架と名前、誕生地、没地がうっすらと読み取れます。

ヒュースケンの墓
墓石に刻まれた文字

SACREDto the memory of
HENRYC JHEUSKEN
Interprcter to the AMERICAN LECATION
in Japan

BORN AT AMSTERUAM
January 20 1832

DIED AT YEDO
January 16 1861

そしてヒュースケンの墓のそばにイギリス公使オールコック付きの日本人通詞伝吉/小林伝吉の墓が置かれています。

伝吉の墓

ボーイの伝吉は、あのジョセフ・ヒコと同じ船(栄力丸)で遭難した漂流民である。アメリカ船に助けられ、のちに中国に渡りイギリス公使館付通訳として帰国を果たしました。しかし彼は驕慢な性格の持ち主で、また日本人女性を外国人に斡旋していたことが発覚したことから攘夷派浪士に狙われるところとなり、安政七年(1860)一月、イギリス公使館が置かれていた東禅寺門前で何者かに刺殺されました。

伝吉の墓に刻まれた英文字

伝吉の墓石の裏面にも英文で名前が刻まれていました。





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