大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第32回 第3日目 JR草津線石部駅前から草津宿

2015年12月24日 16時52分42秒 | 私本東海道五十三次道中記
閑散としたJR草津線の石部駅前をあとにして旧街道筋へと進んでいきます。第3日目は石部駅前からいよいよ52番目の宿場町である草津へと向かいます。草津宿の終着地点までは10.3キロを予定しています。

JR石部駅前



駅前から旧街道筋まではほんの僅かな距離です。旧街道に入り進んで行くと、左側に小振りの松の木が植えられた場所にさしかかります。宿場を意識して造られたとおもわれるポケットパークです。案内板が置かれており、こんなことが書かれています。
「ここは縄手といい、直線状に道が長く続くところで、街道時代には大名行列が石部の宿場に入る前、長い松並木の下で隊列を整えた場所」とあります。

大名行列は常に威儀を正して整然と列を作り行列を進めていた、と考えがちなのですが、こんな悠長なことをやっていたら、お江戸にいつ到着できるかわかったものではありません。多大な経費を費やして行う参勤交代では、少しでも経費を抑え、できる限り最短の日数で江戸に着くことを考えていたようです。
そのため、宿場と宿場の間の街道では隊列を崩し、勝手気ままとはいいませんが、次の宿場の木戸、または見付までは自由に歩いていたようです。そして宿場に入る前に、全員が揃い、襟を正して威風堂々と宿場の中へと入っていったといいます。
そんな様子は少し滑稽に見えたかもしれませんね。

さて、石部から草津宿までは10キロ強の距離ですが、この区間は旧街道が比較的多く残っています。この縄手を過ぎると道筋は小さな橋にさしかかります。この橋を渡ると三叉路にでるので、これを左へと進みます。その先に見える山は安藤広重の石部宿の絵にあった灰山です。

広重の石部宿景

灰山は昔「石部金山」と呼ばれ、聖武天皇時代には銅が、江戸時代には黄銅鉱が採掘されたといわれる山です。後に石灰の採掘場となり灰山と呼ばれるようになりました。融通のきかない堅物を指して「石部金吉」という言葉がありますが、石部金山がその由来となったとの説があります。

「石と金の二つの硬いものを並べて人名のようにした語」なのですが、石部金山に語呂を合わせて作り出したのでしょう。また、石部宿の旅籠は飯盛女を置かなかったといい、このことが所以なのか「石部金吉」には「女色に迷わされない人」という意味合いの方が強いらしいのですが……。

三叉路の先左側の大和産業の前に「左五軒茶屋」、そして「東海道古い道は直進」の標示が置かれています。東海道は江戸時代初期には直進する道だったのですが、野洲川の氾濫で道が寸断され歩けなくなったため、 正面の山の左裾を回る道が開発され、旅人はそちらを通るようになりました。これを「上道」と呼んでいます。 
直進する道を下道、左に大きく迂回する道を上道と呼んだようです。そんな上道と下道の分岐点に「近道禁制札跡」がおかれていました。下道は上道より700mほど短いため、昔の旅人の中には危険を冒しても下道を通行するものが多く、このため上道・下道の分岐点にそれぞれ「近道禁制札」が立てられていましたが、この札跡はその禁を破ってまで下道を辿った旅人がいたことを物語っています。



私たちはかつての「下道」を辿って行くことにします。道筋は左手の工場群と街道の右脇を走るJR草津線の線路沿ってつづいていますが、なんら面白味のない光景です。JR草津線の線路の向こうには国道1号、そして国道に沿うように野洲川が流れています。ということは街道時代には、野洲川がいったん氾濫するとこのあたりまで水浸しになっていたのでしょう。工場群が途切れる辺りに数軒の民家があり、「五軒茶屋」というバス停があります。この名前から察すると江戸時代には茶屋が置かれていた場所ではないでしょうか。



まもなくすると名神高速道路の高架が現れます。これをくぐると正面に作業中の採石場があり、山がどんどん削られていく姿が見えます。ここからは栗東市で高速道路に目を向けると「近江富士455m」と書かれた表示があります。街道右手に現れるこの山の正式名は三上山ですが、その姿が富士山によく似ていることから近江富士と呼ばれています。標高は432mで季節を問わず、山全体が緑に覆われています。

なだらかな稜線を持つこの山の姿を見ると、やはりなにかの力が宿っているような気がします。というのも古くからこの山全体は神域として崇められ、山の西麓には御上(みかみ)神社が社殿を構えています。
この御上神社が三上山を御神体として崇めている神社ですが、御祭神は三上山に降り立った天之御影神(あめのみかげのかみ)という天照大神の孫神様です。そして当社の御本殿は国宝に指定されています。

そんな三上山(近江富士)には一つの伝説が伝わっています。その伝説とは「俵藤太の百足退治伝説」です。

《俵藤太の百足退治伝説》
俵藤太(たわらのとうた)とは平安時代中期の武将で「藤原秀郷(ひでさと)」のことで、弓の名手であの平将門を討ったことで知られています。
さてこの百足退治ですが、実はこの話の始まりは別の場所で起こります。その場所とは琵琶湖の水が瀬田川となって南へと流れ始める場所に架かる「瀬田の唐橋」の橋の上なのです。

ある日、俵藤太が瀬田の唐橋を渡ろうとしたとき、なんと橋の上に大蛇が横たわっていました。大蛇が橋の上にいるため、人々は恐れをなして渡ることができず困っていました。そんな中、藤太は臆せずに大蛇を踏みつけて橋を渡ってしまいました。すると後ろから藤太を呼び止める者がいました。振り返るとそこにはあの大蛇の姿はなく、その代りに美しい女性が立っていました。この女性があの大蛇に化けていたのでした。そしてその女性は藤太に語り始めます。

「あなた様の勇気を買って、是非お願いしたいことがあります。私は琵琶湖に住む龍神です。実は三上山を七巻半も巻いてしまうほどの大百足が琵琶湖に来て、龍神一族をさらっていくので困っています。どうかあなた様のお力で大百足を退治してくれませんか。」
懇願され、断りきれず藤太は大百足退治を快諾し、いよいよ三上山へと向かうことになります。弓の名手である藤太は3本の矢を携え三上山に巻きつく大百足と対峙します。「それでは退治してくれよう。」と最初の矢を放つと大百足に跳ね返されます。そして2本目の矢も同じように跳ね返されてしまいます。いよいよ最後の矢を弓にたがえるとき、藤太は矢じりにつばを吐き、大百足の眉間にめがけて矢を放つと、みごと額に命中しそのまま絶命しました。

実は藤太は大百足との戦いの前に御上神社に戦勝祈願をしています。その時に御祭神から弓の秘訣を授かり、その秘訣を忠実に守ったことで大百足との戦いに勝利したのでした。その秘訣こそが「矢尻に唾をつけてから眉間を狙うというもの」だったのです。

百足を退治したことを龍神一族に報告した藤太は龍神から米俵、巻絹、釣鐘など持ちきれないほどの宝物を授かりました。授かった米俵は不思議なことに食べても食べても減らず、米が増え続けたことから、俵藤太と呼ばれるようになったと言われています。そして授かった釣鐘は三井寺に奉納され、「三井の晩鐘」として知られるようになったといいます。

そんな伝説を持つ三上山を眺めながら、名神高速道路をくぐると、地名は湖南市から栗東市(りっとうし)へ入ります。そして旧街道を横断するように道が左右に走っています。左手からくる道筋が先ほど分岐した「上道」で、ここで本来の街道と合流します。そしてこの辺りの地名は「伊勢落(いせおち)」という名前に変ります。伊勢落集落は白い漆喰に連子格子の古い家が多く、街道沿いの風情ある町並を残しています。

伊勢落の地名は伊勢参りの旅人が中山道から東海道へ出るために近江の守山市伊勢町から南下してちょうどここに出てきます。そしてその道は伊勢大路とか伊勢道と呼ばれており、「伊勢に落ちるところ」ということに由来すると思われます。伊勢落(いせおち)は古く伊勢への参詣道にあたり、伊勢神宮へ向かう斎王が付近の野洲川の河原で禊ぎ祓いをしたと伝わっています。

その先に比較的道幅のある交差点にさしかかります。右手を見ると草津線の線路と近江富士が見えてきます。



伊勢落ち集落を抜けると林集落が現れます。右側の民家の目立たないところに「新善光寺道」の道標が置かれています。新善光寺は江戸時代の「東海道名所図会」に「信州善光寺如来と同体なり」と書かれている浄土宗の寺です。 
道標のある路地を入って250mほど行くと新善光寺が山門を構えています。山門と本堂は明治22年(1889)に再建されたもので、本尊の一光三尊善光寺如来は鎌倉時代から 南北朝時代に作られた98㎝の阿弥陀如来立像で、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)の作とも伝えられ、国の重要文化財に指定されています。
※新善光寺には立ち寄りません。

その先の右側に永正16年(1519)開基の浄土宗本願寺派の「楞厳山長徳寺」があり、境内には石仏群が祀られています。寺の左角に「従是東膳所領」と書かれた「領界標」が建っています。従是東と刻まれていますが、西の間違いではないかと思いがちですが、膳所藩(ぜぜはん)の領地は滋賀郡、栗太郡を中心に近江国六郡、河内国三郡まで及ぶので、ここは飛び地になっていたのでしょう。

旧街道はこの先で「六地蔵集落」へと入って行きます。街道の両側には古い家が多く残っており、江戸時代には石部宿と草津宿との間宿だったところです。そして街道が左にカーブするところに「国宝地蔵尊」と刻まれた石碑が置かれています。
「国宝地蔵尊」は福正寺(法界寺)にある96.5㎝のヒノキ一本造りの木造地蔵菩薩坐像で、平安時代の作といわれ国の重要文化財に指定されています。六地蔵の地名の由来になった地蔵尊の一つのようです。

福正寺の先で街道は右手へゆるやかにカーブしますが、左側に古めかしい立派な建物が見えてきます。この大きな建物が、街道時代に常備薬である和中散を製造、販売していた旧和中散本舗の豪商「大角弥右衛門家」です。

大角弥右衛門家

大角家の本業の「和中散」は徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を飲んだところただちに直ったことから、 腹の中を和らげるという意味で名付けられたと伝えられる腹痛の漢方薬です。江戸時代には和中散を作って売る店が何軒もあったようで、大角家はその一軒です。大角家は間宿の茶屋本陣で、大名や幕府要人の休憩に使われ、また建物に付属する日本庭園は国の名勝に指定されています。現在、和中散は製造されていませんが、街道に面して立つこれらの建物は当時の賑わいを偲ばせるものです。和中散の大角弥右衛門家の前には腰を掛けることができる縁台が付いています。これは縁台ではなく、この台の上に和中散を並べて販売していたものです。



大角弥右衛門家を過ぎると、旧街道は左手から116号線が合流し、視界が大きく広がります。そしてほんの僅か進むと、旧街道と116号線の分岐点にムクノキが植えられた小さな塚と「一里塚跡」の石碑が置かれています。
お江戸日本橋から117番目(約459km)、京三条大橋からは8番目となる六地蔵一里塚跡です。

一里塚跡

私たちの旅も近江の国の中を進み、京都がある山城の国へと徐々に向かっています。一里塚もお江戸から数える数よりも、京の三条大橋から数える方が分かりやすくなってきます。一里塚跡がある場所で旧街道は116号線と分岐し、右側の狭い道へと入っていきます。



道筋は六地蔵から小野集落(旧小野村)へと入っていきます。街道左側の白漆喰の倉がある家には酒屋清右衛門と表記されています。その先にもベンガラで塗られた連子格子が組み込まれた家など、街道らしい風情を漂わせる家が残っています。
街道の右手奥に堂宇を構える光圓寺への細い参道が住宅街の中へとつづいています。そしてその先の右手に1本の松の木が寂しそうに立っています。そんな松の木を「肩かけの松」と呼んでいます。
街道の右手に山門を構える西厳寺という寺の前にこの松の木があるのですが、街道時代に旅人たちがこの松の木の下で荷物を担ぐ肩を変えたことにその名の由来があると伝わっています。
さあ!肩かけの松を過ぎると、過ぎると手原(てはら)集落に入ります。ここは道中記などで「手孕(てはらみ)村」と書かれていたところで、手原1丁目の信号交差点の右側に「東海道」の道標が置かれています。

この先で名神高速道路栗東ICへの接続道路の高架をくぐりますが、このあたりにも古い家が多く残っています。
高速をくぐるとすぐ街道右に小さなお堂が建っています。これが行者堂です。文政3年(1820)の頃、里内九兵衛という人が大和国より役行者大尊像を背負って持ち帰り小堂を建てたのが始まりといいます。

その先の右側に街道らしい家並みが連続して現れます。まずは現在も営業を続けている里内呉服店です。次に蔵付きの立派なお屋敷がつづきます。その壁には「東海道手原村平原醤油店 塩谷藤五郎」と書かれています。江戸時代には醤油製造業だった御家柄です。手原には思いもよらず、豪壮な商家が残っています。

そして街道の左側に赤い柵で囲まれている神社は江戸時代の「東海道名所記」に「左の方に稲荷の祠あり 老木ありて傘の如くあり 傘松の宮という。」と書かれていた「手原稲荷神社」です。
神社の由来書には「傘松の宮とか、里中稲荷大明神とも称された神社で、祭神は稲倉魂神、素戔鳴尊、大市比売神
寛元3年(1145)領主、馬渕広政が勧請、子孫は手原氏と称し、当社を崇敬、文明3年(1471)、同族の里内為経は社殿を修し、社域を拡張、慶長7年(1612)、宮城丹羽守豊盛が社殿を造営した。その後、貞亨3年(1686)と享保8年(1723)に社殿を再建、明治2年に改築、昭和61年修復工事を行った。」とあります。
鳥居の左側に「稲荷大明神常夜燈」「皇太神宮常夜燈」が置かれています。明治天皇が寄られたようで、境内に「明治天皇聖跡」という石碑がありますが、鳥居の左脇には「明治天皇手原小休止碑」が置かれています。



手原稲荷神社がある交差点を右へ行くとJR草津線の「手原駅」です。ほぼ駅前なのですが、それほど賑やかさは感じません。
手原駅の次の駅が草津です。そんなことでこの辺りの人たちはちょっとした買い物は一応発展している草津へ行くのではないでしょうか。
交差点を渡り細い道筋を進んで行くと、左側に立派な門構えの家が現れます。猪飼時計店(いかい)ですが、この建物は街道時代の代官屋敷だそうです。そしてその先の街道右脇に人知れず置かれているのが、東経136度子午線の棒杭です。なんでこんなものが街道脇におかれているのでしょうか。ご存知のように日本の時刻の基準地は東経135度に位置する「明石」です。明石とここ手原は1度ずれている訳なのですが、それが「何なの」といった感じです。

この先で街道が二股に分かれるのですが、その分岐する角に置かれているのが「すずめ茶屋跡」の石柱です。右へ進むと琵琶湖の東岸にあった志那港へと通じます。一応は追分といった場所で、ここには旅人たちが休憩する茶屋があったのです。
道なり歩いて行くと道は左(南西)にカーブし、信号のない交差点に出てきます。交差点を渡り、右側のビィラ栗東というマンションと左の堤の間の道を進んでいきます。

少し先の堤の中腹に「九代将軍足利義尚公鈎 (まがり)陣所ゆかりの地」の石碑が置かれています。
応仁の乱の後、足利幕府の権威は大きく失墜していきますが、足利九代将軍義尚は幕府権力の建て直しを図るため、長享元年(1487)9月12日、近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣しました。
義尚はこの地に陣を張り、六角高頼と小競り合いを繰り返し、なんと1年5か月もの長きにわたりここ鈎 (まがり)の陣所に留まらざるを得なくなりました。そんなことで都に戻る事ができず、鈎 (まがり)の陣所が将軍御所の機能を持つようになり、京都からは公家や武家たちがここに将軍詣でにやってきました。そんな生活をつづけた義尚は次第に政治や軍事を顧みなくなり、幕府権力は側近たちによって専横されることになってしまったのです。そして義尚は都に帰ることなく、長享3年(1489)3月26日、近江鈎の陣中で25歳の若さで病死しました。尚、本陣はここから西に300mほどの永正寺のあたりに置かれたようである。」と記されています。
義尚公の墓は京都の臨済宗大本山相国寺の塔頭寺院である大光明寺にあります。

街道左側につづく堤の向こうには上鈎 (かみまがり)池があり、堤の上からは水鳥が遊ぶ池を一望できます。堤に沿って進むと上鈎東の信号交差点にさしかかります。そのまま真っ直ぐ進んで行くと道はわずかに右へ左へとカーブを繰り返します。少し上りになると葉山川にさしかかります。葉山川に架かる葉山川橋を渡ると右側は一面の畑で、その先に草津の街が見えてきます。



街道の両側は住宅街がつづきます。川辺信号交差点を越えて少し行った左側に「善性寺」が山門を構えています。山門といっても可愛らしいもので、それほど大きなお寺ではありません。当寺は江戸時代の文政9年(1826)に シーボルトが立ち寄ったことで知られています。その当時この寺の住職である「恵教」は、当時としては珍しい植物学者です。シーボルトはその時の印象を「江戸参府紀行」に「かねてより植物学者として知っていた川辺村善性寺の僧、恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見学せり」と綴っています。

善性寺を過ぎると、東海道(県道116号線)はT字路にさしかかります。このT字路の突き当りの向こう側には金勝川(こんぜがわ)が流れています。T字路の交差点は車の往来が激しく、且つ信号がないので、気を付けて進んでください。ここで右折しますが、この先の道筋はかなり狭く、歩道帯もないので車の往来に気を付けて進んでいきます。
T字路の突き当りの堤脇に「金勝寺 こんぜ 東海道 やせ馬坂 中仙道 でみせ」と刻まれた道標が置かれていますが、ここを右折すると右側に「地蔵院」があります。 
境内には「天照皇太神宮」、「八幡大菩薩」、「春日大明神」の碑が置かれています。春日大明神碑の側面に「元禄年間亥年」の刻印がありますが、寺に神社の碑があるのは、神仏混交時代の遺物でしょう。

その先の道を左折し、少し行くと右側の民家前に「一里塚跡」の石柱が建っています。日本橋から118番目の一里塚です。



一里塚跡から200mほど進むと、街道の右側に専光寺が堂宇を構えています。更に数百メートル行くと道はやや左に曲がりますが、右側に「目川立場茶屋伊勢屋跡」という案内板と「田楽発祥の地碑」「領界碑」が置かれています。ここ目川の立場の田楽は菜飯田楽というもので、東海道では吉田宿(豊橋)、菊川と並んで知られていました。

江戸時代には元伊勢屋(岡野家)、京伊勢屋(西岡家)、古志ま屋(寺田家)三軒の茶屋が並んでいました。伊勢屋の天明時代の主人、岡野五左衛門は与謝蕪村に師事した文人画家だった。と案内板に記されています。 
数軒先の寺田家の前に「名代田楽茶屋古志まや跡 」と書かれた石柱が建っています。
傍らの案内板には「江戸時代には目川という立場茶屋があった所で、ここの菜飯と田楽は東海道中で名物になった。」と記されています。 

その先に乗円寺があり、西岡家の前にも「京伊勢屋跡」の案内が置かれています。道は左、右、左とカーブし、その先で堤と突き当たるので、右にカーブする道を進んでいきましょう。この辺りは旧坊袋で、左は堤、右下には畑が広がり、その先には遠くなった三上山が見えます。

新幹線の下をくぐると、また、住宅地になり、右側に「従是東膳ヽ領」と書かれた「領界碑」が置かれています。



更に行くと小柿1丁目の右側に、「史跡老牛馬養生所跡」 の碑が置かれています。湖西和称村の庄屋、岸岡長右衛門は年老いた牛馬を打はぎにする様子を見て、残酷さに驚き、息のあるうちは打ちはぎにすることをやめるように呼びかけた。天保十二年、老牛馬が静かに余生を暮らさせる養生所をこの地に設立した。なお、打ちはぎとは、殴り殺して皮を剥ぐことです。

少し先の左側の土手に「草津市」と書かれた看板があり、その先には川に上る道があったので、登っていくと水は一滴もなく草が生い茂った草津川があります。この川の歴史を辿ると「草津川は平素は水がなく、歩いてそのまま歩けることから砂川と呼ばれていましたが、大雨が降ると一気に水嵩を増して川止めになることもしばしば、堤が決壊して宿場町が飲み込まれて復旧するのに大変苦労したという記録があります。

広重の草津景

草津川の景

草津川は江戸中期頃から土砂の堆積などにより川床が年々高くなり、徐々に堤防が築かれ、江戸後期には現在の天井川の形になったと推定されます。平成14年(2002)に治水事業として中流域から草津川放水路が開削されたため、このあたりの河川は廃川になり、旧草津川と呼ばれることになりました。江戸時代の東海道は浮世絵のように川へ降りて土橋を渡って上っていったのです。土手を上ると草津宿(くさつしゅく)です。



緩やかな坂を登ると土手の上にでてきます。確かに現在の草津川は水無川の名の通り、完全に乾いています。そんな様子を見ながら橋を渡って草津宿内へと入っていきます。宿の入口には常夜燈が置かれ、宿場の雰囲気が漂っています。
宿内を進んでいきますが、古い家並みはほとんどありません。また商店街といった風情もありません。そんな光景を眺めながら進んで行くと、旧街道はT字路に出てきます。そのT字路の左角には草津市民センターがあります。そして右角には大きな常夜燈が置かれています。

常夜燈

そしてこのT字路を右へ進むと「中山道」、東海道筋は左手にのびています。ようするにこのT字路が東海道と中山道が合流する場所なのです。そしてここが草津追分と呼ばれていたのです。

分岐点を示すマンホール
常夜燈のマンホール

草津宿は江戸日本橋から数えて52宿目、京都三条大橋から2宿目の宿場町です。天保14年(1843)当時の宿内の長さは南北7町15間半(約792m)・東西4町38間(約505m)、人口2351人、家数586軒、本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣の2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒という規模を誇っていました。

T字路から草津の本陣は目の鼻の先の距離ですが、草津宿内の散策は次回、すなわち最終回の第一日目に行いますのでお楽しみしてください。私たちはここから旧草津川の下をくぐるトンネルを抜けて、旧草津川の土手に造られた「回転広場」で私たちの到着を待つバスに向かいます。途中、JRの線路を跨ぐ陸橋を渡りますが、橋上からは草津の街を一望できます。



このあと市内の昼食場所「近江スエヒロ本店」へ向かい、近江牛の柳川膳を食しました。

尚、このままJR草津駅の東口へは旧中山道のアーケード街を直進し、マップ内のⒷ地点を左折すると到着です。

昼食後、米原から新幹線に乗るので、その途中の彦根に立ち寄り、国宝彦根城の観光を楽しみました。草津から彦根城までバスで約1時間の距離です。(画像は2016.2.21撮影)

青く晴れ渡った空の下、天守の白漆喰が映えて美しい姿を見せていました。城内の梅の木にはチラホラと梅の花が咲いています。

天守1
天守2
天守3
天守4

天守5
天守6

第3ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第32回 第1日目 土山大野の三好赤甫旧跡から水口宿まで
私本東海道五十三次道中記 第32回 第2日目 水口城址からJR草津線石部駅前

琵琶湖を見下ろす優雅な城・国宝彦根城





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