大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

大御所・家康公の居城「駿府城」探訪

2011年09月27日 10時00分46秒 | 地方の歴史散策・静岡市内
久能山東照宮参詣を終えた後、清水から県庁所在地である静岡へと移動しこの日は静岡で一泊。予想にたがわず静岡市の発展した街並みに驚嘆。東海地区では名古屋についで発展している都市の感。そんな静岡では大御所・家康公の居城として壮大な城郭を誇った駿府城は是非訪れてみたい場所の一つです。

駿府城内堀と巽櫓

地方都市での観光にかかせないのがレンタサイクル。観光マップを片手に、自由自在に動けるレンタサイクルは時間を気にせず、観光箇所をピンポイントに移動できるという機動力を発揮します。
とは言ってもレンタサイクルを借りる場所は限られるのですが、ここ静岡市ではなんと「鈴与レンタカー株式会社」が貸出しサービスを行っています。駅前のホテル・アソシエ前を走る大通りを挟んで真向かいにあるのが鈴与レンタカーです。ここではなんと電動自転車を貸出しています。料金も3時間で400円から500円とリーズナブル。しかもペア(2名)で借りると10%割り引きと更にお得。さっそく9時の開店と同時に電動自転車を借りて、静岡市内の観光へと出発。

※鈴与レンタカー株式会社(オリックスレンタカー静岡駅前店)
〒420-0857 静岡市葵区御幸町11-10
営業時間:08:00-20:00
電話番号:054-254-0543

快適な電動自転車に乗ってまずは市内の南約2キロに位置する登呂遺跡へ。登呂遺跡の観光を終えて再び市内へ戻り、いよいよ駿府城へ登城します。
駿府城址はJR静岡駅から徒歩でも約15分ほどの距離にあり、自転車を利用すればものの5分もあれば着いてしまいます。市の中心の賑やかな繁華街を抜けるとかつて駿府城を囲んでいた外堀が現れます。そして更に外堀の内側には二の丸、三の丸、本丸そして天守を守っていた内堀が昔の姿のままに残っています。

私たちは駿府城址の中でも最も美しい姿を見せる巽櫓と東御門へと向かうことにしました。この建造物は平成8年に復元されたものでオリジナルではないのですが、駿府城址のランドマークとしてまるで絵葉書のように美しい姿を見せています。巽櫓はかつての二の丸の南東に位置する隅櫓で二層三階のL字型構造になっています。東御門は典型的な枡形門で、堂々とした風格を感じさせてくれます。

東御門
東御門と内堀
内堀
枡形の東御門

ここで駿府城の歴史をほんの少し紐解いてみましょう。
ここ駿河国は今から650年前(室町時代)には今川範国(のりくに)が守護に任ぜられてから今川氏の領土の一つになっていました。家康公の幼少の頃、すなわち松平竹千代の頃ですが、今川氏9代の義元の時代に人質としてになんと19年間も駿府で暮らしていました。
戦国騒乱の時代に、今川氏10代の氏真(うじざね)は甲斐の武田信玄に駿府を焼き払われ、掛川へと落ちていきます。その後、天正10年(1582)に徳川家康は駿府の武田を攻め、その結果、駿府の町は再び焼き払われてしまいます。天正13年に駿河の国を領土とした家康公は駿府城を自らの居城とするため築城を始め、天正17年に一応の完成をみます。がしかし、天正18年(1590)の小田原北条氏滅亡後、秀吉の命によって家康公は関東へ移封されたことで、駿府城は豊臣系の家臣である中村一氏(かずうじ)が城主となります。そして関ヶ原の戦いの後、家康公は1603年に征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いたのですが、わずか2年後には将軍職を秀忠公に譲り、大御所政治の拠点として駿府に戻ってきました。
その後、家康公は75歳で亡くなるまでの13年間、ここ駿府と江戸を頻繁に行き来しながら秀忠公のご政道を見守ってきたのです。
家康公没後は家康公の十男で紀州徳川家の祖となった徳川頼宣公、家光公の弟君である忠長公が城主となりましたが、忠長公改易後は大名は置かず城代が配置され、幕府の直轄地となっていきます。

大御所が住まう城として三重の堀に囲まれた駿府城の城下は「駿府九十六箇町」と呼ばれる街区が碁盤の目のように整備され、人口10万人以上を抱える大都市として発展していました。現在の静岡市内の地図を見ると江戸時代に計画された碁盤の目のような街区がそのまま残っているがわかります。

東御門から入城すると目の前に広々とした敷地が目に飛び込んできます。かつてはこの場所に二の丸、西の丸そして本丸の各御殿と五層七階の壮麗な天守が聳えていたのですが、今、その面影はまったくといっていいほど残っていません。わずかながら本丸御殿と天守を囲んでいた本丸掘がほんの一部分水を湛えているだけです。こんな風景をどこかで見たような気がして、ふと思い出すのがかつての江戸城の本丸と天守があった皇居東御苑なのです。

駿府城の天守(模型)

ご多分に漏れず、ここ駿府城も度重なる火災や地震などで御殿をはじめ櫓が消失してしまいました。天守閣は寛永12年の火災で焼失し、その後再建されませんでした。想像するに、天守が聳えていた頃は上方からやってくる旅人の目には天守の背後に天高く聳える富士の高嶺がまるで借景のように見えていたのではないでしょうか。

私たちは平成8年に復元された巽櫓の中の資料展示室を見ることにしました。入口には晩年の家康公の坐像が鎮座し私たちを迎えてくれます。展示物はそれほど重要なものはないのですが、かつての天守閣の模型や二の丸堀から引き上げられた青銅製の鯱(オリジナル)、江戸時代の駿府城下の街並みを現した模型など興味ある展示がつづきます。また展示室の一角に家康公が幼年時代、勉学に励んだ小部屋が置かれています。

家康公坐像
青銅製の鯱
家康公の甲冑
巽櫓から見る東御門

家康公が幼少の頃に過ごした駿河国、そして天下取りを果たした家康公が愛しそして没したた土地・駿府は徳川家にとっては愛知の岡崎に並ぶ故郷的存在でしょう。そんな土地に初めて訪れ、いまだに家康公、徳川を大切にする風土を肌で感じる思い出深い旅となりました。




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