大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

神君・家康公を祀る「久能山東照宮」参拝記

2011年09月26日 15時39分08秒 | 地方の歴史散策・静岡市内
お江戸の歴史を紐解いている過程で、幕府を開いた家康公の足跡を辿ってみたいという欲求はこれまでに生誕の地である愛知の岡崎、日光東照宮参拝という行動に現れてきました。そして家康公終焉の地であり、その亡骸が最初に葬られた駿府はどうしても行かなければならない場所であり、併せて家康公が人質として長きに渡り人質となって過ごした場所であることはなんとしても訪れなければならないとかねてから考えていました。

久能山東照宮御社殿

台風15号が足早に抜けた9月23日(金)の早朝、その影響がいくらかは残っているのではと不安を抱えながら往路は東海道線の在来線に乗り込み、久しぶりに夫婦で鈍行列車の旅を楽しむことにしました。この日はまず久能山を足で登ることを決めていたので、東海道線の清水を目指すことにしました。東京駅から清水まで乗り換えなしでは行くことができないため、途中駅で乗り継ぎをしなければなりません。小田原駅で乗り継ぎ、富士の裾野が広がる景色を車窓に楽しみながら清水駅に到着したのは午前10時20分頃。

JR清水駅前

初めて下りる清水駅前は祝日にもかかわらず、閑散とした佇まいを見せていました。駅前のロータリーに立ち空を見上げると、地方土地特有の高層の建物に遮られていない広々とした空が迎えてくれます。

清水駅で下りた一番の理由は久能山東照宮に足で登るあの1159段の石段が始まる「久能山下(くのうやました)」という場所へ直行するバスの便があるのが清水駅からしか出ていないからなのです。またこのバスの運行が極めて便数が少ないため、予め調べておいたバス便の出発時間に余裕を持って清水駅に到着しなければなりません。

久能山下行バス乗り場

久能山下行のバスは清水駅西口の2番乗り場から。連休の初日であるこの日、たくさんの久能山詣での客がここ清水からバスに乗り込むかと思いきや、なんとわずか5人の乗客のみ。しかも途中で私たち夫婦以外の客は全員降車し、久能山下駅までは貸切状態。バスは市内を抜けて、駿河湾沿いの国道へとさしかかると道の両側にはあの有名な「石垣イチゴ」の畑が現れてきます。台風15号の影響で石垣を覆うビニールと柵が見るも無残な姿になっていました。

清水駅から35分ほどで石垣イチゴの畑に囲まれた久能山下の停留所に到着します。確かに停留所なのですが、なんとも味気ないバス停留所で久能山の参道から少し離れた場所に位置しており、バス停には久能山入口の方向を示す標識すらない侘しい雰囲気を漂わせています。かろうじて海岸線を見下ろすように聳える山が一つ見えるので、あれが久能山であると予測できるのですが、心配なのでバスの運転手に石段の入口の方向を尋ねると、「左へ歩いていくと参道が右手に見えてきます。」とのこと。はやる気持ちを抑えながらふと右手の山を見上げると、石段の柵とかなり上の方に「門」が見え、その石段を上り下りする人影がちらほらと。これからあの石段を登るんだ、という意気込みと1159段という途方もない段数の石段に対する若干の不安を抱えながら参道に到着しました。駿河湾の大海原から吹く潮風が心地よく、台風一過の抜けるような青空が広がっています。

参道脇の店

予想していた参道とは違い、海岸通りからわずか250mほどの短い参道?の両側にお土産屋のような、場末の食堂のような、はたまた参拝客向けの安宿風の建物が並んでいます。どの店もこの地の名産の石垣イチゴの販売所を兼ねていて、店先にはイチゴジュースやイチゴのソフトクリームの看板が並んでいます。また休日にもかかわらず、どの店も閑散として開店休業かと見まがうほどの客の入り。店先には1159段の石段を登るための「お助け棒」が置かれ無料で貸し出しています。無料なのは結構なのですが、再び借りた店に返却しなければならないので、山頂に置きっぱなしにはできないのです。私たちは東照宮さん所有の「お助け棒」がたまたま1本あったので、これを借りることにして、山頂で返却することにしました。

無料貸し出しのお助け棒
一の鳥居を背景に


石段の入口に立つ「一の鳥居」に脇には「別格官幣社」の石柱が堂々とした居ずまいで立っています。そして鳥居の先にはゆるやかな勾配の石畳の坂がのびています。1159段の石段が始まる導入部分としてはわずかながら気持ちを楽にしてくれる坂道です。ですが、そうは問屋はおろしてくれませんでした。鳥居から200mほど進むといよいよ東照神君が与える試練が始まります。石段は角ばった石と比較的大きな丸石を組み合わせた階段で、それどれの階段の幅も広く、段差もそれほど高いものではないので、思ったほど足腰に負担がかからないのです。石段はつづら折りに造られ、石製の手すりがつけられています。石段を覆うように木々が生い茂り、日差しを遮ってくれます。つづら折りのところどころに木製の腰掛が置かれ、疲れた体を休めることができます。

石段
石段
駿河湾を背景に

登るほどに駿河湾のすばらしい眺望が目に飛び込んできます。この場所を自らの墓所として選んだ家康公の偉大さに感服しながら、麓からわずか15分という驚異的な速さで到達したところが「一の門」です。この場所は麓から909段の位置なのです。門前のテラスからは伊豆半島の西側から駿河湾全域と遥か彼方の水平線の大眺望が目の前に広がります。きっと東照神君が909段を登った人だけにしか与えない贈り物、はたまたご褒美なのでしょう。ほんとうに久しぶりに感動した絶景です。

一の門にて
一の門の石垣にて

この「一の門」をくぐったところに「門衛所」と呼ばれる木造の小屋が建っています。この門衛所には江戸時代は与力が詰めて警護の任に就いていたのです。というのは当時は久能山東照宮は誰でも入山できる場所ではなく、限られた参拝者しか詣でることができなかったのです。

「一の門」を過ぎると、めざす東照宮はもう手に届く場所に。若干の物足りなさを感じるくらいにあっという間に約1000段の石段を登り詰め、到着したところが博物館や社務所が立つ広場です。

石段を登っている時は、行きかう人もまばらだったのですが、社務所付近はやたらと人が多く、かなり混雑しています。というのも、この社務所のそばに日本平から久能山東照宮を結ぶロープウェイの駅があるからなのです。1159段の石段を避けて、楽に東照宮参拝をしたいという向きにはこのロープウェイはたいへん便利な文明の利器と言えるでしょう。私たちも帰路はこのロープウェイを使って日本平に向かい、そこから静岡行のバスに乗る予定だったのですが、実は予想もしないどんでん返しが待っていたのです。

まあ、そんなことはどうでもいいのですが、社務所で玉ぐし料を支払い、いよいよ東照宮へと進むことにしましょう。東照宮聖域はさらに石段を登ったところに構える「楼門」をくぐらなければなりません。そんな楼門へとつづく砂利が敷き詰められた参道に「駕籠」がぽつねんと置かれていました。せっかくなので夫婦そろって記念撮影。

駕籠

この楼門には後水尾天皇が自ら書かれた「東照大権現」の扁額が掲げてあり、別名「勅額御門」とも言われています。尚、徳川将軍家の各将軍の霊廟に置かれた惣門、楼門のほとんどに時の天皇が自ら書かれた扁額が必ずといっていいほど掲げられています。

楼門
楼門

ここで家康公と久能山東照宮について簡単に説明をしておきましょう。
天文11年12月26日に三河国岡崎城で生まれた家康公は、戦国の世を生き抜き1603年に征夷大将軍となり、260余年に亘る徳川幕府の礎を築き、晩年は大御所として駿府城に隠居され、元和2年(1616)4月17日に薨去したその日のうちに久能山に葬られました。そして将軍職を引き継いだ2代将軍秀忠公の命により、同年5月からここ久能山に東照宮の造営が始まり、なんと1年7ヶ月という短期間で完成させました。日光東照宮が完成する19年前に造られた久能山東照宮は権現造、総漆塗、極彩色の豪華絢爛な建築物なのですが、日光東照宮と比較すると規模においてもこじんまりとして若干地味に感じますが、江戸時代の初期に作られ、その後の権現造りの模範となるものでたいへん貴重なものです。この貴重な建造物の中で、御社殿は平成22年12月24日に国宝に指定され、その他境内の主要な建造物はことごとく重要文化財に指定されています。

前述の楼門をくぐると家康公の手形が置かれています。現代人に比べるとかなり小さな手で、こんな小さな手で天下取りをしたのかと驚くばかりです。

家康公の手形

そして楼門の背後に構えているが、かつて鐘楼としてつかわれ、今日では鼓楼と呼ばれている建造物です。明治に入り神仏分離令により鐘楼は仏教施設であるという理由から、鐘を太鼓に替えたといいます。私個人的にはつねづね思うのですが、明治新政府になって神道主体思想であったにしても薩長閥のお偉方が訳の分からない神仏分離令などという愚法を作り上げ、日本全国の神仏混合の寺社をことごとく整理し、その際に仏像をはじめ五重塔、鐘楼などたいへん貴重な文化財をかたっぱしから廃棄してしまったことは、まるで中国の文化大革命の際の伝統文化否定の無知な行動と同じではなかったのではと考えてしまいます。

鼓楼

その憂き目にあったのが、ここ久能山東照宮の五重塔です。日光東照宮には五重塔が現存していますが、ここ久能山東照宮では取り払われ、礎石だけが寂しく残っています。

五重塔跡

ちょうどこの辺りが久能山下から数えて石段1100段目にあたります。そして残り19段を登ると御社殿に到着です。途中に神楽殿、神庫そして日枝神社の祠を見ながら、いよいよ絢爛豪華な御社殿です。それではしばし御社殿のまばゆいばかりの装飾をご覧ください。

石段1100の標識
御社殿の透塀
透塀の葵の御紋
境内の家康公お手植えの木
御社殿(1)
御社殿(2)
御社殿(3)
御社殿(4)
御社殿(5)
御社殿(6)


御社殿の左手からつづくのが廟所参道です。約40段の石段を登っていくと、家康公に仕えた武将たちが寄進奉納した石灯籠が並び立ち、厳かな雰囲気を漂わせています。東照宮境内の一番奥に位置する廟所はうっそうとした木々に囲まれた平らな敷地の真ん中に土盛りをした台座の上にどっしりとした宝塔が威厳をもって鎮座しています。家康公の縁の地に置かれているどの宝塔よりもその造りはどっしりとして、その重厚さは見るものを圧倒します。この宝塔は三代将軍家光公によって建てられたもので、高さ5.5m、胴回りは8mと大きなもので、家康公の遺言に従い西向きに置かれています。そして廟の東北角に家康公の愛馬を埋めた場所が残っています。

家康公廟所
家康公宝塔
愛馬を埋めた場所

久能山東照宮御社殿をはじめ、東照神君・家康公の墓所に詣でることができたことは、これまで家康公の縁の地を巡ってきた旅にひとくぎりをつけてような気がしてなりません。家康公ゆかりの地はまだまだ多く残っているのですが、今後は徳川将軍家をはじめ徳川家紋大名、親藩大名にかかわりのある土地を巡りながら、江戸時代へのタイムトラベルを楽しんでいくつもりです。

尚、帰路はロープウェイを利用して日本平に下りる予定だったのですが、実は日本平から静岡へ行くバス便が台風の影響で通行不能となり、結局再び石段を下り久能山下へと戻るはめになったのです。でも、思い出に残る石段をもう一度体験できたことは一生忘れることはないでしょう。

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