JR静岡駅構内の観光案内所で「是非訪れていただきたい場所の一つ」として薦められたのが、静岡を代表する神社で「おせんげんさま」の愛称で呼ばれている「静岡浅間神社」です。
静岡浅間神社
案内所で入手した観光パンフレットに掲載されている当神社の写真を見るかぎりでは、極彩色に彩られたかなり壮麗な建物で、静岡の守護神との表記にこれは是非参詣をしなければと悔いを残すと思われたからです。
観光マップを見ると駿府城址の北西に位置し、自転車を利用すればさほどの距離ではなさそう。駿府城内の巽櫓から本丸掘の脇を抜け県庁舎や法務局合同庁舎が並ぶ内堀に沿って自転車を走らせます。内堀が途切れる辺りで大きく左折し、かつての外堀にあった四足御門跡を抜けると御幸通りと呼ばれる比較的広い通りに出てきます。この通りを右手に進むと大きな交差点の向こうに、朱色の鳥居がどんと構えています。
これが「おせんげんさま」へ通じる参道の一の鳥居だろうと勝手に判断し鳥居をくぐることにしました。鳥居をくぐると、参道と思われる道は遥か彼方まで真っ直ぐに延びて、その道の両側は屋根付のアーケードの商店街になっています。おそらくこの商店街は「おせんげんさま」の門前町として開け、古くから多くの参拝客で賑わっていたのではないかと推測しながら走ると、背後にこんもりとした木々に覆われた山の麓にお社が見えてきます。
「はてな?」せんげんさまのお社とはちょっと違うな、と思いつつ境内マップを見るとせんげんさまの正面入口は大きく右へ迂回しなければならないとのこと。はやる気持ちを抑えつつ、細い掘割に沿ってつづく歩道を進んでいくと、目的の浅間神社の楼門が見えてきました。
あとから気がついたのですが、私たちが最初にくぐった鳥居は実は「大歳御祖神社」(おおとしみおやじんじゃ)の一の鳥居だったのです。いわゆる浅間神社の鳥居は別にあり、参道もまったく違う方向に延びていました。
浅間神社の楼門
まず目に飛び込んできたのが壮麗な楼門です。日光東照宮の家光公の廟「大猷院」や久能山東照宮の楼門にも負けないくらいの御門です。門には扁額が掲げられており、「當國總社・冨士新宮」とあります。
この浅間神社は富士山信仰と深く関係があり、浅間神社の総社は富士山麓の富士宮にある「「富士山本宮浅間大社」です。ということで浅間神社と名付けられた神社は多く点在するのですが、富士山と関係があるため、ほとんどの浅間神社は富士山麓や富士山を望む場所に置かれているのです。
もちろんここ駿府からも霊峰富士の高嶺を望むことができるのです。
そして面白いのはここ静岡の浅間神社は、「神部神社」(かんべじんじゃ)・「浅間神社」(あさまじんじゃ)・「大歳御祖神社」(おおとしみおやじんじゃ)という三社の総称であり、摂社ではなく3つの社が対等にあることなのです。
楼門をくぐると眼前に現れるのが、舞殿と呼ばれる屋根付の舞台とその背後に浅間神社の大拝殿がまるで鳥が羽ばたいているかのような左右対称の優雅な姿を見せてくれます。
舞殿と大拝殿
水盤舎
楼門と水盤舎
舞殿
舞殿の天井
浅間神社の神輿
ここで静岡浅間神社の歴史を簡単に紐解いてみましょう。
古くは平安時代に遡り勧進された当社は、鎌倉時代から戦国へと時代が移っていくと、織田家・今川家・武田家・徳川家と名だたる武将たちに崇敬され、宝物の寄進、装束類の下賜、社領の安堵など、明治時代まで実に手厚い保護を受けてきました。
そして私が尊敬する家康公とも深い関わりがあり、なんと今川家の人質として駿府にいた家康公(竹千代時代)は当社において14歳で元服をしていたのです。
神君・家康公とはただならぬ関係にあった当社は江戸幕府からは手厚い庇護を受けていました。しかし江戸時代を通じて当社は何度も火災にあい、その都度造営が行われてきたのですが、最も大規模な造営工事は文化年間(1804~1817)に60年の歳月を費やして行われたものです。そして現在残っている社殿のほとんどがこの時代に造営されたものなのです。
漆塗りの極彩色と黒と金のコントラストが美しい社殿群は前述の日光東照宮や久能山東照宮のそれと見まがうばかりの絢爛豪華な装いです。
大拝殿
大拝殿の向拝部分
大拝殿はその造りが特徴的で、まるで楼閣のような姿をしており、その高さはなんと25mもあります。この特徴的な造りは「浅間造り」と呼ばれています。
大拝殿の奥には本殿があり、東照宮を思わせる黒と金を基調とした彩りの社殿が静かに佇んでいます。
本殿
浅間神社の境内を取り囲む回廊を抜けて、隣の「八千戈神社」(やちほこじんじゃ)へ向かいます。この八千戈神社は、もともとは家康公が念持仏としていた、大河ドラマ「風林火山」でも、「山本勘助」が所持したことからその名が有名となった「摩利支天」像を安置するために造られたものでしたが、明治の神仏分離令により、現在では近くの今川家の菩提寺である「臨済寺」へと、その像は移されています。
八千戈神社
浅間神社の大拝殿の豪華さもさることながら、この八千戈神社の社殿も贅をこらした素晴らしい装飾が施されています。そしてその装飾の中でも極彩色の彫刻は目をみはるものがあります。この社殿に施された彫刻のテーマは中国の孝行物語である「二十四考」とのこと。蟇股(かえるまた)には孝行を描いた16の彫刻が彫られ、遠目でも確認することができます。そして社殿の朱色の門には黄金に輝く「麒麟」の彫刻が嵌め込まれています。キリンビールのデザインと同じ姿をしています。
八千戈神社の透塀
八千戈神社の向拝部分
麒麟の彫刻
そしてもう一つ、私たちが最初に見た社殿である「大歳御祖神社」の境内へと進んでいきます。もともと当社は昔、安倍川沿いにあったという安倍の市の守護神として崇められてきた歴史があり、そのことから、農業や漁業・商工業など幅広く産業繁栄の神として崇められています。
大歳御祖神社
尚、ここ浅間神社の境内にある社殿24棟と宝蔵・神廐舎の2棟が国の重要文化財に指定されているとのこと。まるで社殿の野外博物館を思わせる境内をくまなく見学したかったのですが、東京へ戻る新幹線の出発時間が迫っていたため、後ろ髪を引かれる思いで立ち去らなければならなかったのが残念でした。
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案内所で入手した観光パンフレットに掲載されている当神社の写真を見るかぎりでは、極彩色に彩られたかなり壮麗な建物で、静岡の守護神との表記にこれは是非参詣をしなければと悔いを残すと思われたからです。
観光マップを見ると駿府城址の北西に位置し、自転車を利用すればさほどの距離ではなさそう。駿府城内の巽櫓から本丸掘の脇を抜け県庁舎や法務局合同庁舎が並ぶ内堀に沿って自転車を走らせます。内堀が途切れる辺りで大きく左折し、かつての外堀にあった四足御門跡を抜けると御幸通りと呼ばれる比較的広い通りに出てきます。この通りを右手に進むと大きな交差点の向こうに、朱色の鳥居がどんと構えています。
これが「おせんげんさま」へ通じる参道の一の鳥居だろうと勝手に判断し鳥居をくぐることにしました。鳥居をくぐると、参道と思われる道は遥か彼方まで真っ直ぐに延びて、その道の両側は屋根付のアーケードの商店街になっています。おそらくこの商店街は「おせんげんさま」の門前町として開け、古くから多くの参拝客で賑わっていたのではないかと推測しながら走ると、背後にこんもりとした木々に覆われた山の麓にお社が見えてきます。
「はてな?」せんげんさまのお社とはちょっと違うな、と思いつつ境内マップを見るとせんげんさまの正面入口は大きく右へ迂回しなければならないとのこと。はやる気持ちを抑えつつ、細い掘割に沿ってつづく歩道を進んでいくと、目的の浅間神社の楼門が見えてきました。
あとから気がついたのですが、私たちが最初にくぐった鳥居は実は「大歳御祖神社」(おおとしみおやじんじゃ)の一の鳥居だったのです。いわゆる浅間神社の鳥居は別にあり、参道もまったく違う方向に延びていました。
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まず目に飛び込んできたのが壮麗な楼門です。日光東照宮の家光公の廟「大猷院」や久能山東照宮の楼門にも負けないくらいの御門です。門には扁額が掲げられており、「當國總社・冨士新宮」とあります。
この浅間神社は富士山信仰と深く関係があり、浅間神社の総社は富士山麓の富士宮にある「「富士山本宮浅間大社」です。ということで浅間神社と名付けられた神社は多く点在するのですが、富士山と関係があるため、ほとんどの浅間神社は富士山麓や富士山を望む場所に置かれているのです。
もちろんここ駿府からも霊峰富士の高嶺を望むことができるのです。
そして面白いのはここ静岡の浅間神社は、「神部神社」(かんべじんじゃ)・「浅間神社」(あさまじんじゃ)・「大歳御祖神社」(おおとしみおやじんじゃ)という三社の総称であり、摂社ではなく3つの社が対等にあることなのです。
楼門をくぐると眼前に現れるのが、舞殿と呼ばれる屋根付の舞台とその背後に浅間神社の大拝殿がまるで鳥が羽ばたいているかのような左右対称の優雅な姿を見せてくれます。
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ここで静岡浅間神社の歴史を簡単に紐解いてみましょう。
古くは平安時代に遡り勧進された当社は、鎌倉時代から戦国へと時代が移っていくと、織田家・今川家・武田家・徳川家と名だたる武将たちに崇敬され、宝物の寄進、装束類の下賜、社領の安堵など、明治時代まで実に手厚い保護を受けてきました。
そして私が尊敬する家康公とも深い関わりがあり、なんと今川家の人質として駿府にいた家康公(竹千代時代)は当社において14歳で元服をしていたのです。
神君・家康公とはただならぬ関係にあった当社は江戸幕府からは手厚い庇護を受けていました。しかし江戸時代を通じて当社は何度も火災にあい、その都度造営が行われてきたのですが、最も大規模な造営工事は文化年間(1804~1817)に60年の歳月を費やして行われたものです。そして現在残っている社殿のほとんどがこの時代に造営されたものなのです。
漆塗りの極彩色と黒と金のコントラストが美しい社殿群は前述の日光東照宮や久能山東照宮のそれと見まがうばかりの絢爛豪華な装いです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/97/4070890e6fc5190a0c0ed67737a07d5a.jpg)
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大拝殿はその造りが特徴的で、まるで楼閣のような姿をしており、その高さはなんと25mもあります。この特徴的な造りは「浅間造り」と呼ばれています。
大拝殿の奥には本殿があり、東照宮を思わせる黒と金を基調とした彩りの社殿が静かに佇んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/fd/d225ba241e42ccc97cf70f48c6f38432.jpg)
浅間神社の境内を取り囲む回廊を抜けて、隣の「八千戈神社」(やちほこじんじゃ)へ向かいます。この八千戈神社は、もともとは家康公が念持仏としていた、大河ドラマ「風林火山」でも、「山本勘助」が所持したことからその名が有名となった「摩利支天」像を安置するために造られたものでしたが、明治の神仏分離令により、現在では近くの今川家の菩提寺である「臨済寺」へと、その像は移されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/b7/e4e04548468b5987b9be72fde135432d.jpg)
浅間神社の大拝殿の豪華さもさることながら、この八千戈神社の社殿も贅をこらした素晴らしい装飾が施されています。そしてその装飾の中でも極彩色の彫刻は目をみはるものがあります。この社殿に施された彫刻のテーマは中国の孝行物語である「二十四考」とのこと。蟇股(かえるまた)には孝行を描いた16の彫刻が彫られ、遠目でも確認することができます。そして社殿の朱色の門には黄金に輝く「麒麟」の彫刻が嵌め込まれています。キリンビールのデザインと同じ姿をしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/b8/fd18abc72caa17458352731717526668.jpg)
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そしてもう一つ、私たちが最初に見た社殿である「大歳御祖神社」の境内へと進んでいきます。もともと当社は昔、安倍川沿いにあったという安倍の市の守護神として崇められてきた歴史があり、そのことから、農業や漁業・商工業など幅広く産業繁栄の神として崇められています。
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尚、ここ浅間神社の境内にある社殿24棟と宝蔵・神廐舎の2棟が国の重要文化財に指定されているとのこと。まるで社殿の野外博物館を思わせる境内をくまなく見学したかったのですが、東京へ戻る新幹線の出発時間が迫っていたため、後ろ髪を引かれる思いで立ち去らなければならなかったのが残念でした。
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