ひろかずのブログ・3

81歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

東車塚古墳、正確な位置判明 円墳の周濠発見  加古川・日岡山古墳群調査

2022-11-05 09:49:11 | 余話として

   

   東車塚古墳、正確な位置判明 円墳の周濠発見

      埴輪片も出土 加古川・日岡山古墳群調査

 東車塚古墳から「三角縁神獣鏡」(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土しています。

 加古川地方を支配した豪族は、大和(奈良)地方の豪族から、この鏡を与えられていたようです。

 日本が誕生した4世紀には大和の豪族と同盟関係を持っていたことを示す貴重な鏡です。

 その東車塚古墳について、今朝(5日)神戸新聞に大きく報道されています。史料として再掲させていただきました。

    ◇神戸新聞(115日)より

兵庫県加古川市教育委員会は、日岡山公園(同市加古川町大野)再整備を前にした、同公園内の埋蔵文化財の試掘調査結果を発表した。古墳時代前期(3~4世紀)の円墳2基の周濠(しゅうごう)(墳丘の周囲を巡る溝)を発見し、墳丘が消失していた東車塚古墳は、正確な位置や規模などが判明。西車塚古墳とともに、埴輪(はにわ)片が出土したため、両古墳に埴輪が立ち並んでいたことも分かった。(斉藤正志)



 市教委文化財調査研究センターによると、両古墳は日岡山古墳群にある。埴輪片の特徴や製作技法から、東車塚古墳は古墳時代前期の半ばごろに、西車塚古墳は同前期の後半ごろに築造されたとみられることも判明した。

 東車塚古墳は日岡山古墳群の東側にある。1950(昭和25)年に副葬品が発見されたが、その後墳丘が消失し、正確な位置が分からなくなっていた。今回の調査で、6カ所から周濠を検出。幅約11メートルの周濠が巡り、古墳の直径が約38メートルとみられることが分かった。

 西側に隣接する西車塚古墳は、現在も公園内に墳丘が残る。昭和40年代の公園整備時に誤って一部が削られ、修復して復元したが、詳細な規模は分からなくなっていた。調査で3カ所から周濠が発掘され、幅約10メートルの周濠が巡り、古墳の直径が約32メートルである可能性が高まったという。

*注:神戸新聞に掲載された3枚の写真のうち1

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別府町をゆく(37) 写真集・別府町(4) 別府鉄道(2)・別府港駅

2022-11-05 07:31:47 | 加古川市歴史探訪・別府町編

      別府町をゆく(37) 写真集・別府町(4) 別府鉄道(2)・別府港駅

 別府鉄道は、大正4年7月5日の創立で当時、別府の地は山陽本線と直接連絡していなかったので、多木製肥所の製品を陸路遠隔地へ発送する場合、別府から土山駅または加古川駅まで荷車で運搬して、汽車に積むか、あるいは別府港から船積みで神戸港まで運びました。

 そのため運賃がかさみ、荷痛みがひどく、社長であった多木久米次郎は、この不利不便を除き、別府と山陽線とを結ぶ鉄道の敷設を思いたちました。

 大正5年1月から路線の実測に着手し、大正10年9月3日には野口線(野ロ~別府港間、3.6キロメートル、同12年4月11日には土山線(別府港~土山間、4キロメートル)を開通させた。この両線の開通によって、多木製肥所では製品の輸送が円滑に行なわれるようになりました。

 運輸が便利になり、昭和の初めごろ、旅客輸送、貨物輸送ともに盛んになりました。

 また、肥料の急激な需要に応じて、多木製肥所は、昭和4年から別府町西脇と宮西とにわたる海岸地帯に分工場を建設し、この工場の製品を輸送する必要上、引き込み線を延長しました。

 *写真上:別府港駅(昭和37年)呉田利明氏提供



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