常徳寺(2) 播磨西国三十三ヵ寺の観音霊場
常光寺の南室和尚が定める
西国三十三観音霊場巡りは、平安時代の中ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねをするようになりました。
人々は、病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えるとお礼のために、または亡き人の供養のために、さらに自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音霊場めぐりに出かけました。
第一番の那智山青岸渡寺から、最後の三十三番目の谷汲山華厳寺までの寺めぐりでした。
それは、まさに苦行の旅でした。
江戸時代になり、治安もよくなりました。
交通機関も整備され、西国三十三観音霊場めぐりも比較的やりやすくなり、苦行であった巡礼も、レクレーション的な性格さえ持つようになりました。
それでも、誰にでもできる気軽な巡礼の旅ではありません。
苦しい生活の庶民にとって、三十三観音霊場巡りは現在の外国旅行よりも、ずっと縁の遠いものでした。
そこで考えられたのが「播磨の国に三十三ヵ寺の観音霊場を定め、それらの寺を巡礼すれば、同じ功徳がある」としてはじまったのが「播磨西国三十三所霊場めぐり」です
このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。
常光寺は、建武の三年(1336)、 開山されたとされていますが、その後、火災・戦火に会い衰えます。
慶安元年(1648)、赤松氏の後裔である南室和尚を招き、中興の開山の祖として寺号も天徳山として再出発をしました。
南室禅師は、播磨西国三十三ヵ寺を定め播磨の国の三十三ヵ寺めぐりを盛んにさせたのです。
ここでも赤松一族が登場します。常光寺は「赤松」「足利」につながるお寺であったようです。
お寺の庫裏の前に元山門の瓦でしょうか、足利氏の家紋のある瓦(写真)が保存されています。