野口町をゆく(100) 大庫源次郎物語(26) ドタン場のカンフル注射
源次郎は自力で製品を開発していこうと決意しました。
昭和28年の夏も終わりに近いころ、彼は兵庫県商工労働部の中小企業経営診断士、大中信夫氏を訪ねました。
さっそく、大中氏は大庫機械製作所を診断するため同社を訪れました。
同社は、機械修理工場としては大きすぎ、その設備の半分は動いていませんでした。
大中氏は「遠からずつぶれてしまう」と判断し、新製品への切換えを勧告しました。
新製品といっても、同工場の技術と施設にふさわしいもので、絶対他社に負けない売れる商品ということです。
大中氏は、運搬機器に対する技術に自信があるものと判断し、スクリューコンベヤ、ベルトコンベヤ、ポータブルコンベヤ、などの 運搬機器の製造等を勧告しました。
源次郎の考え方と勧告案は一致したのですが、より以上の高度な技術が要求されます。
大中氏は、自分の友人の阪井英人氏を源次郎に紹介しました。
阪井氏は当時、すでに運搬工学に関する第一人者で、源次郎は、阪井氏を大庫機械製作所の顧問として招きました。
こうして新たに製作をはじめたコンベヤ類は、戦後の運搬機械化の波に乗って、好調な売れ行きをみせ、半ば仮死状態だった大庫機械製作所も大きく息をふきかえしたのです。
コロコンのヒント
「こんなことで油断してはあかん。どんな不況が訪れてもびくともせんような新製品を開発しておかないと、また泣くような破目になってしまう」源次郎は、真剣に構想をねっていました。
ある日、彼の机の上に置いてあったソロバンの上を、ライターがわずかな傾斜ですべり落ちたのです。
「こいつや、エネルギーはゼロ、チョットの勾配がありさえすれば、ライターの重さが動力に代わりとなる。・・・」
源次郎は、思わずヒザを叩いたのでした。
コロコンキャリヤー開発の糸口は、こうして開かれた。
だが、当時は運搬の合理化などという言葉はまだ耳新しく、労働力も豊冨にあり、労賃も安い時代でした。製品化するにはかなり勇気がいります。
源次郎は、現場幹部たちを会議室に集め、完成した設計図を広げて見せました。ところが、現場の反応は意外に冷たいものでした。
「社長、そんなものより、今までの製品に力を入れた方が得策と違いますか、業績もあがっているじゃないですか」
これまで、どんな苦境の時で常に従ってきてくれた従業員も、こんどばかりは反対しました。気持ちはよくわかった。が、源次郎は、計画を推し進めました。
昭和29年の春、正月まで後わずかでした。
*写真:コロコンキャリヤー開発のヒントになった長いソロバン
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