風塵抄(2) 加印地方(加古郡と印南郡)
このブログを風塵抄・加印の歴史としてはじめました。少し説明が必要です。
(高砂市・稲美町・中学生が使っている社会科(歴史)の教科書の一部を読んでみます。
・・・・(奈良時代)地方は国・郡などにわけられれ、国には都の貴族を国司として派遣し、郡には地方の豪族を郡司に任じて、人々を治めさせました。・・・
加古川・高砂地方は、国とは「播磨の国」であり、郡は加古郡と印南郡(いんなみぐん)です。
この時、郡の境は、加古川の流れを基準とされ、つまり、加古川の東側を加古郡、西側を印南郡としました。
私たちの地方は、川を挟んで、加古郡と印南郡とからなっており、「加印地方」と呼ばれ、一つの文化的、経済的地域を形成してきました。
しかし、加古川は天下の暴れ川でした。洪水は、幾度となく川の流れをかえ、郡境と加古川の流れが、その都度一致しなくなりました。
川東の印南郡野一部は加古川村・木村村・友沢村・稲屋村は印南郡に属していました。なにかと不都合が生じました。
明治22年2月22日、印南郡に属していた加古川町、西河原村、友沢村、稲屋村、木村の一町四村が、地理的な関係から加古郡に編入ました。
その印南郡も昭和52年、印南郡に最後まで残っていた志方町が、加古川市と合併し、奈良時代に誕生したその郡名も消滅し、現在にいたっています。