犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第8章「学問」より

2007-09-19 10:41:36 | 読書感想文
昨日は、広島市の暴走族追放条例違反事件の最高裁判決があった。平成14年11月の事件について最高裁まで5年もかけて争うことの虚しさもさることながら、裁判での論点設定とその争われ方が虚しい。暴走族の被告人は、「広島市の条例は憲法21条の集会の自由を過剰に規制しており違憲無効である」として、無罪を主張して争ってきた。しかし最高裁は、「条例は暴走族や類似集団だけが規制対象だと限定的に解釈でき、憲法違反とまでは言えない」と述べ、被告人に有罪判決を言い渡した。判決の是非以前に、何とも脱力するニュースである。法治国家は大変である。

我が国の社会問題において、9条以外に「憲法」という単語が登場するのは、このような場面に限られている。これでは国民の間の憲法論議が盛り上がるわけがない。常識ある国民であれば、暴走族が爆音を立てて周辺住民に迷惑をかけながら暴走する行為に「集会の自由」や「人権」という言葉を使うこと対しては、反射的に違和感を持つのが当然である。そんなに罪を負うのが嫌であれば、最初から暴走しなければ済むだけの話である。ところが、近代法治国家の最高裁は、このような訴えを大真面目で議論する。暴走族はうるさいという話を、どうしてここまで難しくできるのか。

最高裁の2人の裁判官は少数意見として、「限定解釈には無理がある」「服装や集会の自由に対する規制と市民の不安解消という利益が著しく不均衡」として、違憲判断を示した。ご苦労様なことである。高級車で官舎と最高裁を往復している司法エリートは、暴走族が爆音を立てている現場など知らないし、知ってはいけない。憲法21条の客観的な法解釈を完結させるためには、理念の世界で純粋に精密なロジックを構築しなければならず、それが法治国家における公平な裁判所を実現するという建前である。事件は広島市の繁華街で起きているのではなく、威厳ある最高裁の大理石で作られた大法廷で起きている。もちろん実際には、このようなフィクションが可能であるはずがない。王様は裸である。


p.117より
馴れるということは恐ろしいことで、初めは変だと感じていたものも、それが続き、あるいは増えてゆくうちに、それが普通であると感じるようになってゆく。鈍麻する、摩耗するのである。人間として最も大事な部分、人間を人間たらしめている根本的な部分が、気づかないうちに変質するのである。

p.123より
学問と生活の一致を目指すなどとうそぶく者たちの言を、私はまったく信用していない。学問と生活は最初から一致しているからである。別々だと思っている者だけが、それを一致させるべきだと言うからである。

「哲学者」と「哲学研究者」

2007-09-18 15:43:20 | 実存・心理・宗教
哲学は社会の役に立たない。その通りである。しかし、その役に立たない方向性にも2つある。1つは、表面的な現象を追いかけてばかりいる高度資本主義社会の中に根本的な疑問を投げ込むことによって、社会の円滑な進行を妨害するという作用である。これは、いわば「哲学者」によってなされる作用である。この意味で、哲学者は役に立たないばかりか危険人物である。しかしその反面、これ以上役に立つ人物はおらず、混迷した議論に道筋を付ける理論を提供する人間もいない。もちろん、肩書など何の関係もない。この「哲学者」は、通常の生活を送っている人々の中にも潜在的に沢山存在する。

これに対して、「哲学研究者」は、役に立たない上に危険人物でもない。他のマニアックな趣味の世界に没頭するのと同じことであり、人畜無害である。世間一般の哲学者に対する評価は、抽象的で役に立たない理論ばかりを振り回しており、現実離れして生活力がないというものが多いが、これはかような研究者に対して最もよく当てはまる。法律学から哲学に対して、さらには法哲学に対して向けられる批判も同様である。法とは何か、正義とは何か、法と道徳の違いとは何か、このような大上段の問題の立て方は、実際のところ何の役にも立たない。それよりも企業法務に精通し、株主総会に関する議論を厳密に深め、取締役の第三者責任(会社法429条)に関する体系的な理論を展開したほうが社会の役に立つという話にもなってくる。

「哲学研究者」が役に立たないことの虚しさは、想像以上のものがある。ニーチェ研究者を名乗るのであれば、常識的に知っておかなければならないことが山ほどある。ニーチェがルー・ザロメに求婚して断られたのはなぜか。妹エリーザベトとの不和の原因は何か。このような研究は、やはり面白い人にとってはたまらなく面白い種類のものであり、ここがわからなければニーチェの思想はわからないと言われれば、そうと言えないこともない。しかし、人間の短い人生においては、他に考えなければならないことも山ほどある。ニーチェの精神錯乱の原因についても、娼婦からの梅毒の感染であれば3年程度で死亡するのに対し、実際には11年も生きていることから、未だにその原因について研究者の間で争いがある。このような争いは、結局のところ、古いカルテを引っくり返して分析するという作業に終わる。

ニーチェの著作は、生前にはあまり売れず、全世界の人類に向かって語っていたのに実際には周囲の友人にしか読まれないといった状況に苦しんでいた。画家でいえばゴッホと似ている。ここで、現在では世界的な大哲学者として評価されていることについて、後世の人間が感慨を持ってしまえば、そこで哲学的思考は終わりである。さて、感慨を持っているのはいったい誰なのか。哲学は「哲学すること」という進行形で現れるしかなく、過去の残骸のお勉強に走ってしまっては台無しである。ニーチェは、自分の著作が日本語にも翻訳され、ちくま学芸文庫から『ニーチェ全集』なるものが発行されていることなど知る由もない。死後に名を残したことは死んでみなければわからず、しかし死んでしまえば死後に名が残ったかどうかはわからない。「哲学者」と「哲学研究者」の違いは、このような現実に直面して感慨を持って終わるか、それとも感慨を持ちたくなる自分は一体誰なのかを手放さないか、この違いであるとも言える。

池田晶子著 『人生のほんとう』 第Ⅰ章 常識 p.16~20

2007-09-17 18:24:34 | 読書感想文
全国の裁判所における刑事裁判において何よりも重視されているのは、善悪の話ではない。条文の明確性、刑罰の謙抑性といった問題点である。そこでは、法と道徳の違いが強調され、不道徳だというだけでは法的に処罰してはならないことが大原則とされる。そして、一般社会で言われるところの「常識」には消極的な評価が与えられてきた。常識とは不明確なものであり、しかも時代や場所によって変わるものであり、このような概念で有罪・無罪を決めてはならないからである。特にわいせつ図画販売罪(刑法175条)については、表現の自由(憲法21条)との関係で長々と議論があり、常識的な視点からの規制論に対しては、お決まりのように人権論からの反発が起こってきた。

しかしながら、時代や場所によって変わるようなものが、そもそも「常識」の名で呼べるのか。自分が自分である。ここに宇宙があって地球がある。人は生まれて生きて死ぬ。これは、時代や場所によって変わるものではない。だからこそ、この世のトラブルを裁く裁判では、このような事実を完全にすっ飛ばし、その先の精緻なな議論へと進んできた。そして、「犯人と被告人の同一性に補強証拠は必要であるか」といった細かい議論に入り込み、人間が罪を犯すことの悪の問題については置き去りにされる。善悪の問題については、違法性の本質に関する行為無価値論と結果無価値論の対立に変形され、技術的な体系の構築ばかりが争われてきた。

かくして、世界人権宣言にも書いてある罪刑法定主義の格調高い議論は、細かい条文解釈の争いとなり、いつの間にかバカバカしい話に変わる。「食器に小便を引っかけた場合に、器物損壊罪(刑法261条)は成立するのか。『損壊』とは、その文字を見れば物理的に破壊することを指すように見える。しかし、物の効用を害することも『損壊』に該当するものと解すべきである。従って、食器に小便を引っかけた場合にも器物損壊罪は成立する」。刑法学の議論は、ほとんどがこの手の話で埋め尽くされている。この食器小便事件は、明治42年4月16日の大審院(最高裁判所)判例であり、どの公式判例集にも登載されている重要判例である。

近代刑法の公理は、法的安定性・予測可能性である。すなわち、何が罪になるのかがわからなければ、人間はいつ警察官に逮捕されるかわからずに毎日を過ごさなければならず、安心して行動ができないという前提である。ここから、罪刑法定主義が導かれる。しかし、このような功利主義一辺倒の人間存在の捉え方は、あまりに幼稚であり、人間をバカにしすぎた話である。人間の欲望の一場面だけを切り取ったとしても、それで社会の全てを説明できるわけがない。専門家の常識は一般の非常識と言われるゆえんである。人によって常識になったり非常識になったりするものが「常識」であるわけがない。人が生きて死ぬ、自分が生きて死ぬ、この当たり前の恐怖と奇跡、これの常識を見落としたまま常識の何たるかを論じても始まらない。

真の個人主義

2007-09-16 14:25:03 | 実存・心理・宗教
日本国憲法には、個人主義の理念が定められている(11条、13条、97条)。そして、憲法の専門書にはどれも同じことが書かれている。それは、「個人主義は利己主義ではなく、真の個人主義はエゴイズムとは対極にあるものだ」という説明である。そして、国民の権利意識の向上は望ましいものであり、「個人主義によって人間が道徳を忘れて自己中心的になった」という指摘は的外れだと説明される。

しかしながら、的外れであろうとなかろうと、国民の間から「個人主義によって人間が道徳を忘れて自己中心的になった」という声が出ている事実は否定できない。これは、人間が1人の個人としての偽らざる実感を述べたものである。法律家は、真の個人主義の理念というものが客観的に存在し、一般国民はそれを理解していないという図式を描きがちである。しかし、抽象的な理念によって人間の実感を誤りだと断ずることはできない。その個人の実感の存在を否定できないことが、まさに個人主義の理念である。

真の理念がどこかに存在しており、人間がそれを勉強して身に付けるという姿勢が、真の理念を発見したためしがない。理念とは、専門家によって教えられるものでもなければ、憲法の条文によって与えられるものでもない。今ここにある自分の人生に気がついた者が、その実存的不安の中において、暗中模索のうちに探し求めるものである。その意味では、専門家の結論先取りの能書きよりも、「個人主義によって人間が道徳を忘れて自己中心的になった」という素朴な疑問の声のほうが正しい。

真の理念は、真理を知りたいという人間の知的欲求の動きの中に表れる。「私は真理を知っているが、あなたは真理を知らない」という態度に出るや否や、人間は真理ではなく勝負を求めてしまっている。個人主義の理念には、真も偽もない。従って、個人主義は利己主義ではないとも断定できないし、個人主義はエゴイズムと対極にあるものだとも断定できない。個人主義は個人主義であって、個人主義でないものではなく、利己主義は利己主義であって、利己主義でないものではない。

伊藤真著 『憲法の力』

2007-09-15 14:28:06 | 読書感想文
伊藤氏がこの本を書いた動機は、怒りである。「今の改憲への一連の流れは、憲法への冒とく、民主主義への冒とく、そして私たち国民への冒とくにあふれているからです。この状況は、『改憲』ではなく、『壊憲』といえるものだと思います」(p.198)。このような怒りを動機とする理論は、一緒に怒っている人にとっては破壊的な説得力を持つのに対して、そうでない人にとっては単にうるさいだけの話である。伊藤氏は「護憲派」ではなく「立憲派」を名乗っているが、自らを何らかの派閥に属させるという点ではどちらも変わりがない。本人がいかに叫んでも、世間的には護憲派に分類されるのがオチである。

伊藤氏は司法試験界のカリスマと呼ばれ、司法試験界においては知らない人はいないというほど有名であるが、一歩外に出れば無名という種類の人物である。各種集会での講演活動をしている割には広がりを見せず、宮崎哲弥氏のように評論家として名を挙げているわけでもない。各種集会といっても、最初から結論が出ているタイプの集会ばかりであって、いつも同じような聴衆を相手に話しているのでは、いつまでも少数派に止まっているのも仕方がない。その挙句として、「少数派の人権を尊重せよ」と主張して多数派を形成しようとするのではますます仕方がない。伊藤氏は、民主主義という文脈では国民に期待しつつ、大衆社会という文脈では国民に苛立っているが、両者が区別できるわけもない。

伊藤氏が宮崎氏のようにメジャーになれないのは、憲法が国家権力を縛るためのルールであるということを前提としつつ、国民に憲法への関心を持つように訴えている点に矛盾を抱えているからである。法律は国民の自由を制限するルールであるが、憲法は国家権力が義務を負うルールであり、国民は名宛人ではない。これが憲法と法律の違いである。そうであれば、多くの国民にとっては、憲法などに関心を持たないのが通常の事態である。少なくとも、「国民は憲法に関心を持つべきである」という結論にはそのままつながらない。この点について伊藤氏は、自分は若い頃は憲法に無関心であり、これを反省して今は憲法の素晴らしさを子どもに教えようとして「憲法の伝道師」と名乗っているのだと述べているが、これでは評論家として評価されるはずもない。

伊藤氏は、犯罪被害者に関して次のように述べている。「私たちは、刑事裁判という公的な制度の問題と、復讐心という個人的な問題を区別することから始めなければなりません。国家が私的な復讐心に加担することは、国家の目的に反します。国家はあくまでも、国民が人権を保障されて安心して暮らせる社会を作るためのものです。はっきり言えば、刑事裁判は被害者のためにあるのではありません。これが近代文明国家の刑事司法制度の本質です。被害者のケアが不十分だと、被害者も刑事裁判という公的な場面に怒りを訴えていくしかなくなってしまいます」(p.102~104より)。国家権力と市民という二項対立の図式を崩さずに、被害者という異質なものを処理しようとすれば、このような結論に至るしかない。そして、苦し紛れに「保護」「ケア」を持ち出すしかない。しかしながら、人間の苦悩を「ケア」に押し込むような浅薄な理論が、現実の被害者の声に耐えられるはずもない。

新司法試験合格発表

2007-09-14 11:03:57 | その他
昨日は、第2回新司法試験の合格発表であった。私の知人にも、犯罪被害者保護に取り組みたいとの目的を持って、わざわざ仕事をやめて3年間も法科大学院に通って受験した人がいたのだが、本人の予想通り不合格であった。何しろ法科大学院の3年間は、全く興味の湧かない大量の判例の一言一句を読まされたり、敵対的買収防衛策やM&A、コーポレート・ガバナンス、コーポレート・ファイナンス、アカウンティングに関する文献を読まされたりして、苦痛以外の何物でもなかったとのことである。やはり条文や判例に絶対に逆らうことが許されず、常に時代の最先端の情報を追わなければならない法律の実務家という職業は、少しでも哲学的な思考を持ち、自分の頭でものを考えたい人には務まりにくいようである。

法務省や司法試験管理委員会(実際はその中の偉い人)、司法研修所(実際はその中の偉い誰か)による公式発表において、必ず触れられるキーワードがある。1つは「法曹の質の低下」である。そもそも法科大学院構想は、予備校の隆盛によって技術的なテクニックのみで簡単に合格してしまう受験生が増え、法曹の質が低下したことの打開策として始められたものであった。ところが、いざ法科大学院制度を開始してみると、今度は法曹人口が増えすぎてしまい、法曹の質の低下をもたらすのではないかという危惧が指摘されている。何が何だかよくわからない。人権感覚が鋭いはずの弁護士会も、人間に対して「質」という言葉を使い、それが上がった下がったといって株価のように扱うことに対しての違和感がないようである。そして、光市母子殺害事件をめぐっては、加害少年の弁護団と橋下徹弁護士とが、お互いに相手方を「法曹の質の低下」の例であると定義づけて攻撃し合う羽目になっている。

キーワードのもう1つは、「法科大学院の自然淘汰」である。新司法試験の合格率の低下は、そもそも法科大学院の乱立に原因があり、この点が大量の不合格者の出現を招いている。一度きりの人生において、せっかく苦労して入った会社をやめて、3年間も高い学費を払った多くの人達が、何の補償もなしに無職として放り出された。しかしながら、法務省や司法試験管理委員会(その中の偉い人達)は、そのような問題には興味がない。視点はあくまでも高く、法科大学院の設置の規制緩和である。国会で答弁をした有名な憲法学者によれば、法科大学院制度を失敗であると結論付けるのは時期尚早であり、あと10年くらい見てみなければわからないらしい。その間には、自然現象として合格率が著しく低い法科大学院への入学志望者は減少し、法科大学院の自然淘汰というプロセスが起こることが予想されるそうである。人権感覚が鋭いはずの弁護士会も、人間に対して「自然淘汰」という言葉を使い、それぞれの人間が一度きりの人生を生きているこの世において10年という物差しを持ち込むことに対しての違和感はないようである。

法律家の視点が長きにわたって犯罪被害者を見落としてきた理由も、司法制度改革に際しての法律家のコメントを見てみればよくわかる。法科大学院制度しかり、裁判員制度しかりである。あらゆる制度設計をめぐる問題は、それぞれの識者が「主観的にあるべきと思っていること」の争いにすぎないが、これが「客観的にそうなるはずのこと」であると信じられることにより、人間の人生の文法が切り落とされる。人間は「学生」「受験生」という肩書に変換され、「質」を吟味され、「合格者数」という数字に置き換えられる。次の新たな法律家として次の時代の制度設計をするのは、このような試験の中でも勝ち抜いた合格者である。従って、法律的、政治的な意味での被害者保護法制が進むことは、現在の司法制度改革の下ではあまり望めない。法曹の質が低下すればもちろん望めないし、法曹の質が向上すればますます望めない。

参考:明日の裁判所を考える懇談会(第15回)
http://www.courts.go.jp/saikosai/about/iinkai/asu_kondan/asu_kyogi15.html

政策論は政局に負ける

2007-09-13 10:20:11 | 実存・心理・宗教
昨日は、秋田県藤里町の連続児童殺害事件の初公判であった。最初の事件発生から約1年5ヶ月余りを経て、ようやく待ちに待った裁判が始まり、被告人の動機を含めた真相解明がようやく進むのではないかとの期待が高まった。ワイドショー的に盛り上がった1年5ヶ月前の熱も冷めて、ようやく事件から何らかの教訓を得られないか、その可能性が現実のものとなりかかっていた時である。ところが、ここに安倍首相の辞意表明のニュースが飛び込んで、この裁判に関する世論の関心は完全に吹き飛んだ。1年5ヶ月も待たされて、待ちに待った日が、よりによって最悪のタイミングだったわけである。

世論を盛り上げよう、国民全体で考えよう、このようなスタンスは、どうしても他のニュースとの関連性を免れることができない。古いところでは、平成6年の末に中学生のいじめ自殺問題で世論が盛り上がったことがあったが、平成7年の1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件が起こり、いじめ問題の議論が完全に吹き飛んだという例が典型である。悲惨な事件や事故が起きれば、犯罪被害者保護に対する世論は急激に盛り上がる。しかしながら、この情報化社会において、世論はあっという間に移り変わる。個々人の情報処理能力は、それほど種々の社会問題を同時並行で掘り下げて考えられるほど器用ではない。情報化社会においては、世論に対して訴えかける活動は、お互いに国民の関心の奪い合いとなる。

世論を盛り上げて社会を動かそうという主義主張は、署名を集めて政治家を動かし、法律を変えようという方向に行くしかない。ところが、今回の安倍首相の辞意表明によって裁判のニュースがどこかへ行ってしまったという事実は、政策論が政局に負けることを意味している。これは何もマスコミの姿勢の問題ではなく、すべての人間の情報処理能力の問題である。いかにマスコミが連続児童殺害事件のニュースを詳しく伝えたとしても、安倍首相の辞意表明を知ってしまった日本国民には、事件の裁判のニュースを掘り下げて考えようとする余力がなくなる。犯罪被害に関する問題は、それが厳罰派であれ人権派であれ、世論を盛り上げて法律を変えるという方向性では一致している。しかし、その法律を作る国会、そして政府与党が、国民的な議論の盛り上がりそのものを妨害することがままある。2年前の小泉首相による郵政解散においては、障害者自立支援法などの多くの法律が審議未了で中断したまま棚上げされ、関係者がやり場のない怒りを抱えたこともあった。政治とはそういうものである。

秋田県藤里町の連続児童殺害事件の公判が始まったのは昨日の午前10時であり、午後1時前に安倍首相が辞意を表明するまでは、1面トップの記事となるはずであった。1年前から満を持して臨んだ記者もがっかりである。張り切っていた検察官もがっかり、弁護士もがっかりである。限りある紙面は大幅に削られ、しかも安倍首相に関心が移った多くの人には読まれない。政治的な野望が、本物の政治に潰されたわけである。1年5ヶ月も待たされた挙句、再び世論を盛り上がる千載一遇のチャンスは思わぬ形で消えた。犯罪被害者に関する世論の関心を高めようという政治運動は、他のニュースという新たな敵を自ら作り出す。大きなニュースが同じ日に重なれば、世間的な基準でより大きなニュースが勝つことは当然である。犯罪被害という実存的な問題を哲学的に掘り下げず、政治的に解決できる問題として捉えるならば、今後も昨日のような現象は止められない。

小西聖子編著 『犯罪被害者遺族』 第8章

2007-09-12 16:08:28 | 読書感想文
第8章 被害者と援助者

小西氏は次のように述べている。「あなたは何のために生きているのか。あなたの生死は誰が決めるのか。あなたの価値はどこにあるのか」。現代社会の日常生活においては最も避けられている種の問いであるが、犯罪被害という非日常の場面では、この問いが逃れられないものとして迫ってくる。多くの人がが避けているということは、すなわち誰しも潜在的にはこのような問いを保有しているということである。犯罪被害という経験は、この問いを顕在化させるものにすぎない。その意味で、犯罪被害者と一般人とを異なった人種のように捉えることは、現代人の「安全バイアス」であり、初めからピントがずれている。

法律の考え方は、すべてを0か1にデジタル化し、哲学的な問いをすべて棚上げする。どのような条件を満たせばその凶器には証拠能力があり、どのような証拠が揃えば被告人を有罪にできるのか、専門用語によって方程式を解くように決められてゆく。ここでは、被害者遺族の感情といったアナログなものは異質であり、そのままでは使えない。そこで、遺族の言葉は「厳罰感情」という概念にデジタル化され、さらに「量刑資料」という概念に変形され、法律の論理に取り込まれる。しかし、遺族のやり場のない感情は、もちろんそのような単純なものではない。息子はなぜ死ななければならなかったのか。哲学や宗教、倫理や道徳は何とかしてこの問いに答えようとして苦しむが、裁判は最初から答えようとしない。

近代刑事裁判の下では、仇討ちが禁止されている。そのことによって、まさに人間は仇討ちをしたくなることが自然であり、赦すことは不自然であることを示している。もしも赦すことが自然であるとするならば、人間は大昔から誰も仇討ちなどせず、赦し合っていなければ説明がつかないからである。「厳罰感情」という概念にデジタル化された遺族の言葉は、哲学的な問題を先送りするばかりではなく、それが法律的に解決できるという幻想をもたらす。しかしながら、突き詰めればA説とB説の折衷説、トラブルの交通整理を目的とする法律のカテゴリーにおいて、このような解決が図られたためしがない。デジタル化された遺族の言葉は、死刑廃止論と死刑存置論の対立、あるいは厳罰賛成派と厳罰反対派の対立において政治的に利用されるだけのものとなり、いつまでも堂々巡りを繰り返す。

人生は一度きりである。人生の不可逆性、人生の一回性が最も残酷な形で迫って来るのが犯罪被害である。人間は、それが取り返しのつかない現実であるからこそ、その理由を問いたくなる。被害者遺族の問いは、すべてこのようなものである。人間が立ち直ることも、人間が立ち直れないことも、すべては人間が生きることと同義である。被害者遺族が苦しいのは、それが生きることそのものだからである。生きたいという意欲なのか、生きなければならないという義務なのか、誰にもわからない。その意味で、犯罪被害者への援助を行うのであれば、まずは援助者が存在の謎に深く気付いていることが最低条件である。このような哲学的な難問を含む被害者への援助までが実証科学によってマニュアル化され、0か1にデジタル化されてはたまらない。

現世的な利益

2007-09-11 18:33:09 | 実存・心理・宗教
福岡市東区におけるの幼児3人が死亡した飲酒運転・ひき逃げの事故の裁判においては、例によって裁判所で細かい事実認定が続いている。被告人はいつブレーキを踏んだのか、そんなことは本人だけが知っていることであり、他の人間にはわからない。しかし、近代合理主義による思想は、これが科学の力によってわかるはずだという幻想の下で話を進めている。そして、多額の税金を投じて自動車工学の専門家3人が2台の車の速度差やブレーキの有無を鑑定し、その結果として3人の鑑定意見が割れて大論争になっている。被害者遺族が疎外されているというならば、まずはこの科学主義信仰を直視しなければ話にならない。

被告人は、自らの刑を少しでも軽くすることを求めて、裁判では自らを防御することができる。これは、あくまでも「できる」という権利である。防御「する」でもなく、「しなければならない」でもない。最後は本人の意思である。刑事裁判の理屈においては、被告人が犯した罪を反省していることと、軽い罪を求めることとは両立するとされる。これは、倫理的には逆である。被告人が犯した罪を心から反省しているならば、どんな重い罪でも負う覚悟をしなければならない。実際にブレーキを踏んでいても、被害者遺族に心底謝罪したいのならば、「私はブレーキを踏んでいませんでした」と述べるくらいの覚悟は必要である。

近代刑事裁判は、すべては国家権力という絶対悪との関係で物事を捉えるため、その1つ1つが犯罪被害者に対して欺瞞的に作用する。これは人間の率直な欲望を隠蔽する。人間というものは、今も昔も、反省よりは軽い刑を求めるものである。刑を科される原因となった事実を直視することよりも、刑から逃れることを望むものである。これはこれで事実である。しかしながら、近代刑事裁判は、被告人が刑から逃れようとして自己弁護することを「善」であると断定する。ブレーキを踏んでいると記憶しているならば、その通りに述べることは当然として、さらにブレーキを踏んでいなかったとしても、「私はブレーキを踏んでいました」と主張することが「善」であるとされる。警察官や検察官が「悪」だからである。もちろん、被告人が罪を深く反省していることが「悪」とされるわけではない。軽い刑を求めて弁解をする「善」の絶対性の前には、罪を反省することは一歩退かざるを得ないという意味である。

自分の犯した罪を心から反省しているような被告人であれば、その人間はどんな重い罪でも負うことを受け入れ、弁解も否認も控訴もしようとしない。これは端的な事実である。反省している者が重い罪を受け入れ、反省していない者が軽い刑を求めて争うことは、人間は自らそうであるところのものに自らなっているという人生の深い真実を示している。防御する権利を利用するもしないも、被告人次第である。すべては自分の人生の選択である。ここで、被告人たるものは進んで軽い刑を求めなければならないという大文字の理屈を持ち出すのは、やはり国家権力という絶対悪を持ち出すルサンチマンのなせる業である。自分の人生を考えるのに、他人の理屈を借りてくる必要などないはずである。自分は3人の幼い子どもの命を奪ってしまった、この絶対的な事実の前には、ブレーキを踏むのが0.3秒遅かろうが0.7秒早かろうが、裁判で争われている事項は本質からずれた余興のような話である。

近代刑事裁判における被告人の権利は、どこまでも現世的である。それは、被告人の現世利益の追求に通じる。近代刑事裁判の理論は、この世の犯罪現象を解決するための1つの方法にすぎない。もちろん完全なものではない。だからこそ、犯罪被害者が割を食ってきたわけである。人権論が宗教的になると、近代刑事裁判の理論は完全であり、犯罪被害者が見過ごされるのもやむを得ないといって切り捨てられることが必然となる。これに対して、近代刑事裁判の理論は不完全であり、単なる仮説の1つにすぎないという自覚を持っていれば、犯罪被害者の問題も全く違った様相を見せる。

矢幡洋著 『とにかく目立ちたがる人たち』

2007-09-10 18:15:08 | 読書感想文
筆者は臨床心理士であり、心理学の専門的な理論がわかりやすく述べられている。現代社会のエンターテインメント化、人間の内的資質の貧困といった問題意識も当を得ている。「天然」「ヘタレ」「キャラ立ち」から「ヒストリオニクス」「ナルシスト」まで、キーワードもわかりやすい。しかし、何というか、それだけである。人間の行動を細かく分析してデータを集め、タイプ別に分類する科学的な手法は、どうにも人間をバカにしている感じが否めない。『他人の心をつかむ心理テクニック』といったマニュアル本よりは優れているとしても、心理学の本は概してこのような感じものが多い。

なぜ人は目立ちたがるのか、有名になりたがるのか。心理学からは、本書のように色々と科学的に分析されているところである。法律学からは、それは幸福追求権(憲法13条)の発現であり、自己実現と自己統治の価値(憲法21条)であり、自由主義社会における人権の行使そのものであるとして、肯定的な評価が与えられることが多い。それでは、哲学からはどのように捉えられるのか。これは、「自分が死ぬべき存在であることを忘れようとして、目の前のことに夢中になっている」ことに尽きる。この圧倒的な図星の力は、他のどんな実証科学にも破られることがない。一度しかない人生だから幸せになりたい、目立ちたい、有名になりたい。すべては「死ぬのが怖い」の変形である。

矢幡氏も現代社会における人間の内面の消失を憂いている。場の空気を盛り上げることしか考えていないお笑い芸人が、テレビに映らないところでは自分自身を見つめて内省しているとは、一部の人を除いては考えにくい。現代社会では、心の糧とともにゆっくりと人間的成長を遂げていくことを求める人間は、周囲から浮いてしまって引きこもる羽目になる。これは実際そのとおりであろうが、これを心理学の理論によって解決しようとすれば、さらに底の浅さを露呈させる。ハイデガーは、未来の死に逆照射される形で、その無との関係性において今が生じるのだと述べた。死から照射されていない思想は二流であると言われる理由である。

他人の目が気になって本音トークができない、ノリの良さを演じるのに疲れてしまった、知り合いは沢山いるが親友と呼べる人がいない、高すぎる自己評価と現実とのギャップ、これは多くの現代人に見られる悩みである。心理学のカテゴリーは、この問題の所在がわかっていながら、これといったポイントを突くことができない。いつまでも仮説と検証を繰り返しているしかない。このような心理学のカテゴリーを見る限り、犯罪被害の問題を心理学にお任せするのは心もとない。犯罪被害者には心のケアをすれば問題は解決する、加害者に対して厳罰を求める感情も消えるはずであるといった理論には、やはり希望が持てない。人間の生死に対する真剣さがないからである。