犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

必要悪が宗教になる

2007-09-24 19:48:26 | 実存・心理・宗教
被告人は、裁判では自己の記憶にあることを語らず、思う存分自己弁護をすることができる。自己の有利になることはいくら主張してもよいが、自己の不利になることは黙秘する権利がある。このような裁判のルールは、それ自体独立で自己を正当化できるわけではない。あくまでも、国家権力による冤罪を最大の悪と位置づけたことの反作用として、その目的を達成するための必要悪である。被害者をさらに傷つける反道徳的な行動も、国家権力の悪を前提としなければ、それ自体では正当化できない。

「疑わしきは罰せず」というルールも、人間に直感的な違和感を生じさせる限りは、単なる次善の策である。被告人は本当に罪を犯しているのか犯していないのか、裁判ではそれ以上踏み込まないという決めごとである。その結果として真犯人を無罪放免にしても、それはそれで必要悪であると割り切ってしまう。単なるこの世のルールである。国家権力による冤罪を避けるためには被害者を犠牲にするという結果も、単なる必要悪であることを前提としてのみ正当化できる。真犯人を無罪放免にすること自体は、独立では善ではあり得ない。あくまで国家権力の悪を前提とする限りで正当化できるのみである。

しかしながら、人権派弁護士や支援者が被告人の冤罪を主張するとき、その運動は宗教に似てくる。すなわち、「信じる」という心情である。本当に罪を犯しているのか犯していないのかわからないからこそ、「この人は犯していない」と信じる必要がある。もし犯していないことが確実であれば、信じる必要などない。半信半疑だからこそ、信じるという心理状態を採ることになる。これが人間の陥りやすい原理主義の志向である。信仰という心理状態は、真理を探究する意志とは対極的である。被告人は本当に罪を犯しているのか犯していないのかわからないのであれば、「この人は犯していない」と信じる必要などどこにもない。

被害者や一般国民の側から見れば、「それならば真犯人は誰なのだ」と言いたくなる。しかし、人権派弁護士や支援者は、そのような当然の疑問を聞く耳を持たない。「あの人が本当にやっているわけがない」という結論が先にあり、それを絶対的に信仰するだけである。このような人々によって苦しめられる被害者が存在する限り、「被告人の人権と被害者の人権は両立する」という見解も、単なる名目上の建前にすぎなくなる。そもそも裁判とは、検察官の提出した起訴状に記載された公訴事実があるのかないのか、それだけを決定する手続であって、被害者のためにあるのではないと言い切るのが原理主義である。そうであれば、被告人の人権と被害者の人権は両立するわけがない。「被告人の人権のためには被害者の人権は犠牲にすべきである」と言わなければ筋が通らない。