犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

凶悪事件の一報を聞いて

2007-09-07 14:40:02 | 国家・政治・刑罰
凶悪な殺人事件のニュース速報を聞いて、通常の人間は、最初にどのような反応をするのか。まずは反射的に、人間として「許せない」と感じるのが通常であろう。「犯人は絶対に死刑にすべきである」、このような怒りを反射的に持つのが通常の人間である。そして、そのほんの数秒後から、最初の純粋な直感に対して従来の知識が混じることにより、段々と考えがまとまってくる。そして、多くの人間は、「法治国家では正式裁判が必要であり即刻死刑にすることはできない」、「凶悪犯人にも弁護士がつくのも制度上仕方がない」といった辺りで納得し、その線で落ち着いてゆくことになる。

この数秒の間の移り変わり、そして絶対に変わらない順番、これは見落とすことのできない真実を指し示している。凶悪犯罪の一報を聞いた時の一秒一秒の自分の心の動き、これを丹念に辿ってみれば誰でもわかることである。人間の研ぎ澄まされた直感は、まずどこへ向かっているのか。被害者の無念か、死の恐怖か、遺族の悲しみか。それとも刑法の条文への該当性か、罪刑法定主義に基づく無罪の推定か。もちろん客観的な刑法のパラダイムからすれば、被害者が殺された瞬間に、殺人未遂罪は殺人既遂罪に変化しているはずである。刑法203条(殺人未遂罪)の構成要件は、混合的包括一罪の吸収関係として、刑法199条(殺人既遂罪)に吸収されて消滅しているはずである。被害者が2人であれば、殺人罪は次々に成立し、その瞬間に刑法45条による処理(併合罪)が生じているはずである。これが法治国家において、客観的に存在しているはずの動きである。しかし、その客観性を、この地球上で一体誰が実際に捉えているというのか。

ヘーゲルが「人間を動物のように扱う理論である」と批判したのが、フォイエルバッハの心理強制説であり、それに基づく罪刑法定主義の思想であった。罪刑法定主義の思想は、殺人事件の一報を聞いた人間に対して、まず冤罪の防止、誤認逮捕の防止という視点から物事を捉えることを要求する。被害者や遺族に同情する世論に対しては、感情によって理性を失っている大衆の無知であり、冤罪の温床であるとの評価がなされる。しかし、実際に凶悪事件のニュースを耳にした人間において、一瞬のうちにこのような視点を持つことは果たして自然であるのか。法治国家、弁護権といった理屈はその通りであるとしても、それは「人間として犯人は許せない」という直感に遅れてくる後知恵ではないのか。「逮捕された容疑者が犯人であるかは裁判が確定するまでわからない」「犯人に殺意があったか否かは裁判が確定するまでわからない」という建前が納得できるとしても、それは「許せない」という直感には時間的に勝つことができない。

民主主義における議論は、多くの場合には深まらずに迷走する。それは、最初の一瞬における言葉にならない瞬間を捉え損ない、客観的な出来事の存在を前提として、それを分析しにかかることと無関係ではない。いかなる出来事も、瞬間的な衝撃を伴って人間を訪れる。もし、人間が真理に近づこうと思うならば、その瞬間における自分の心理状態を逃さないように保管し、それを自問自答して深めるしかない。もちろん、「犯罪とは客観的な刑法の条文への適用である」と考える近代国家においては、このような真理を追求することはタブーである。専門家は、無知な大衆とは一線を画するエリートでなければならないからである。しかし、この合理的であるはずの近代の理論が、さらなる混迷を招いているとは、一体どうしたことか。