犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「命の重さ」の軽さ

2007-09-05 13:17:40 | 国家・政治・刑罰
「いじめ問題」と「いじめ自殺問題」は分けて論じられるべきであるという議論がある。これは、科学主義、実証主義による過度な分析的手法の悪弊である。様々ないじめの形態について、○○型、△△型と分類したところで、その分類自体が自己目的化して訳がわからなくなるのがいつものパターンである。さらに、科学主義の限界に直面すると、急に「命の重さ」が出てくるのもいつものパターンである。いずれにしても地に足が着いていない感じである。「いじめ問題を解決しよう」「いじめを撲滅しよう」という大上段の目的を掲げてしまう限り、これは必然的に政治的なイデオロギーとなる。

「いじめ問題」と「いじめ自殺問題」は分けられない。人間という生き物は、どういうわけか、いじめられると人生に絶望する。子どもも大人も、執拗ないじめを受けたときには、なぜか生き続けるよりも死にたくなってしまう。この端的な事実よりも強力な事実はない。いじめは死に直結するからこそ問題なのであって、「いじめ問題」と「いじめ自殺問題」とを切り離してしまえば、何をどこから論じているのかわからなくなる。いじめを受けて自殺した子どもにとっては、世界も宇宙も消えてしまったのであるから、当然「いじめ問題」も「いじめ自殺問題」も消えており、両者の区別も消えている。

今日の様々な問題は、それが複雑化した社会において生み出されているがゆえに、社会問題の枠組でしか捉えられない。そして、肝心な点を見落とす。それが「人生」の文法である。生きる意味がわからないならば、それは死を見なければわからない。これが弁証法である。学校は生徒のいじめ自殺に直面すれば、全校集会を開いて「命の重さ」を訴えるしかないが、この文法が弁証法的に逆立ちしているのは明白である。人間は生きている限り、必ず死ぬ。人生に「目的」という概念を持ち込むならば、それは時間的にも論理的にも、究極は死でしかない。生きがいを求めて死を恐れ、その結果として自らの死を招き、周囲はそれを処理できずに慌てる。人間が政治的に「自殺を減らそう」と語って熱くなるとき、見事に自分自身は未だ死んでいないことを忘れる。そして、自殺した本人とっては、「増える」「減る」という概念自体が消滅していることを忘れる。

へーゲルの社会哲学的な視点は、科学主義、実証主義による過度な分析的手法の悪弊が目立つ現代においては、大いに役に立つところがある。本来、哲学というものは、死、自由、私、自我、意識、神、自然、人生、道徳、言語、時間、他者といった概念のすべてを問題にするものである。これらの思考は、一見すれば生活から遊離した抽象的な真理を追究するように見えるが、その根本動機において、人間の生の必要に根ざしていることは当然である。いじめ問題の解決に必要な視点は、命の重さではなく、命の軽さである。生きているうちは命が軽く扱われて、死んだ途端に重くなるというのでは、笑うしかない。