犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

矢幡洋著 『とにかく目立ちたがる人たち』

2007-09-10 18:15:08 | 読書感想文
筆者は臨床心理士であり、心理学の専門的な理論がわかりやすく述べられている。現代社会のエンターテインメント化、人間の内的資質の貧困といった問題意識も当を得ている。「天然」「ヘタレ」「キャラ立ち」から「ヒストリオニクス」「ナルシスト」まで、キーワードもわかりやすい。しかし、何というか、それだけである。人間の行動を細かく分析してデータを集め、タイプ別に分類する科学的な手法は、どうにも人間をバカにしている感じが否めない。『他人の心をつかむ心理テクニック』といったマニュアル本よりは優れているとしても、心理学の本は概してこのような感じものが多い。

なぜ人は目立ちたがるのか、有名になりたがるのか。心理学からは、本書のように色々と科学的に分析されているところである。法律学からは、それは幸福追求権(憲法13条)の発現であり、自己実現と自己統治の価値(憲法21条)であり、自由主義社会における人権の行使そのものであるとして、肯定的な評価が与えられることが多い。それでは、哲学からはどのように捉えられるのか。これは、「自分が死ぬべき存在であることを忘れようとして、目の前のことに夢中になっている」ことに尽きる。この圧倒的な図星の力は、他のどんな実証科学にも破られることがない。一度しかない人生だから幸せになりたい、目立ちたい、有名になりたい。すべては「死ぬのが怖い」の変形である。

矢幡氏も現代社会における人間の内面の消失を憂いている。場の空気を盛り上げることしか考えていないお笑い芸人が、テレビに映らないところでは自分自身を見つめて内省しているとは、一部の人を除いては考えにくい。現代社会では、心の糧とともにゆっくりと人間的成長を遂げていくことを求める人間は、周囲から浮いてしまって引きこもる羽目になる。これは実際そのとおりであろうが、これを心理学の理論によって解決しようとすれば、さらに底の浅さを露呈させる。ハイデガーは、未来の死に逆照射される形で、その無との関係性において今が生じるのだと述べた。死から照射されていない思想は二流であると言われる理由である。

他人の目が気になって本音トークができない、ノリの良さを演じるのに疲れてしまった、知り合いは沢山いるが親友と呼べる人がいない、高すぎる自己評価と現実とのギャップ、これは多くの現代人に見られる悩みである。心理学のカテゴリーは、この問題の所在がわかっていながら、これといったポイントを突くことができない。いつまでも仮説と検証を繰り返しているしかない。このような心理学のカテゴリーを見る限り、犯罪被害の問題を心理学にお任せするのは心もとない。犯罪被害者には心のケアをすれば問題は解決する、加害者に対して厳罰を求める感情も消えるはずであるといった理論には、やはり希望が持てない。人間の生死に対する真剣さがないからである。

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