犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

いじられキャラが立つ

2007-09-26 18:41:25 | 実存・心理・宗教
麻生太郎氏のおかげで「キャラが立つ」との表現が目立っている。キャラとはキャラクターの略であり、人間に使われる場合には、性格類型、その人の持ち味といったものを指している。もともと、「キャラがかぶる恐怖」という現象があり、これはキャラクターを中心とした日本の現代若者文化に特有の表現であると言われていた。ここでは、ある個人が小社会集団の中で「特定の固定された役割を演じているはずだ」という前提がある。そして、その社会集団の中で、ある個人の性格類型(それに基づく固定された役割)が別の個人と重複し、それによって本人同士や集団全体がささやかな不利益を被っている現象が「キャラがかぶる恐怖」である。良い悪いはともかく、言い得て妙である。

今年7月3日に神戸市須磨区の私立高校で飛び降り自殺した3年生の男子生徒は、周囲の人に「いじめられているのか?」と聞かれると、「いじられキャラやから」と答えていたという。高校という特定の小社会集団の中で、特定の固定された「いじる」「いじられる」という役割を演じざるを得ないとなれば、一見穏やかそうに見えて水面下は弱肉強食の生存競争、万人の万人に対する闘争である。どんなに頑張っても、人間にキャラクターがあてがわれる限り、「いじられキャラ」の発生は止められない。いまや学校のみならず、会社でも同じような現象が起きている。一度「いじられキャラ」が確立してしまうと、なかなかそこからは脱出できない。そして、いじる側に立った人間は、「いじられキャラ」に転落する恐怖と直面するため、自らの既得権を絶対に手放さない。

自殺した高校3年生の男子生徒は、「うそを1回つくごとに5万円を払う」という約束をさせられ、それを支払うために学校や親に内緒でアルバイトをしていたが、さらに同級生らの要求はエスカレートし、最後は数十万円になっていた。そして、男子生徒は「借金が返せない」と話していたという。ここで、この金銭の流れが「借金」にあたるか、すなわち法律的に刑法の恐喝罪にあたるか、民法の強迫にあたるかといった話はどうでもいい。「いじられキャラ」を演じて自分を守ろうとした男子生徒が、自分自身に対してそれが「借金」であると言いくるめ、それが自分自身を苦しめてキャラを演じきれなくなったところに問題がある。すべては「いじられキャラ」という肩書きのなせる業である。学校側も「いじめがあったか確認できない」などと寝ぼけたことを言っている場合ではない。麻生さんも、「キャラが立つ」などと言っている場合ではない。

キャラという軽い単語は、実際のところは深い実存不安を内包している。今、現にここに存在している私、人間は誰しもこの実存から逃れられない。それが故に、人間はその対極であるキャラを演じる方向に走る。しかしながら、誰しも演じたくない「いじられキャラ」にはまって抜け出せなくなると、実存不安を解消するためのキャラが自らに実存不安を生じさせ、かえって自殺を誘発してしまう。一度きりの人生で、なぜ自分は「いじられキャラ」であるのか。しかもこのキャラは先祖伝来の宿命でもなく、自由競争の下での自分の努力不足であるとされる。そして、普通の人間では恐喝にあたる行為でも、「いじられキャラ」ならば納得の上で罰金を負担するのがその集団の固定された役割だから、恐喝ではなくて借金である。従って、借金はしっかりと返さなければならない。このような論理の中に放り込まれれば、「命を大切にしましょう」といったお説教など何の説得力もなくなる。「借金が返せない」と言って死んでいった男子生徒の言葉は、キルケゴールやニーチェの実存主義の角度から分析される必要があるが、この視点は教育評論家と哲学者のすき間に入ってしまって、なかなか指摘する人がいない。