犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『人生のほんとう』 第Ⅰ章 常識 p.16~20

2007-09-17 18:24:34 | 読書感想文
全国の裁判所における刑事裁判において何よりも重視されているのは、善悪の話ではない。条文の明確性、刑罰の謙抑性といった問題点である。そこでは、法と道徳の違いが強調され、不道徳だというだけでは法的に処罰してはならないことが大原則とされる。そして、一般社会で言われるところの「常識」には消極的な評価が与えられてきた。常識とは不明確なものであり、しかも時代や場所によって変わるものであり、このような概念で有罪・無罪を決めてはならないからである。特にわいせつ図画販売罪(刑法175条)については、表現の自由(憲法21条)との関係で長々と議論があり、常識的な視点からの規制論に対しては、お決まりのように人権論からの反発が起こってきた。

しかしながら、時代や場所によって変わるようなものが、そもそも「常識」の名で呼べるのか。自分が自分である。ここに宇宙があって地球がある。人は生まれて生きて死ぬ。これは、時代や場所によって変わるものではない。だからこそ、この世のトラブルを裁く裁判では、このような事実を完全にすっ飛ばし、その先の精緻なな議論へと進んできた。そして、「犯人と被告人の同一性に補強証拠は必要であるか」といった細かい議論に入り込み、人間が罪を犯すことの悪の問題については置き去りにされる。善悪の問題については、違法性の本質に関する行為無価値論と結果無価値論の対立に変形され、技術的な体系の構築ばかりが争われてきた。

かくして、世界人権宣言にも書いてある罪刑法定主義の格調高い議論は、細かい条文解釈の争いとなり、いつの間にかバカバカしい話に変わる。「食器に小便を引っかけた場合に、器物損壊罪(刑法261条)は成立するのか。『損壊』とは、その文字を見れば物理的に破壊することを指すように見える。しかし、物の効用を害することも『損壊』に該当するものと解すべきである。従って、食器に小便を引っかけた場合にも器物損壊罪は成立する」。刑法学の議論は、ほとんどがこの手の話で埋め尽くされている。この食器小便事件は、明治42年4月16日の大審院(最高裁判所)判例であり、どの公式判例集にも登載されている重要判例である。

近代刑法の公理は、法的安定性・予測可能性である。すなわち、何が罪になるのかがわからなければ、人間はいつ警察官に逮捕されるかわからずに毎日を過ごさなければならず、安心して行動ができないという前提である。ここから、罪刑法定主義が導かれる。しかし、このような功利主義一辺倒の人間存在の捉え方は、あまりに幼稚であり、人間をバカにしすぎた話である。人間の欲望の一場面だけを切り取ったとしても、それで社会の全てを説明できるわけがない。専門家の常識は一般の非常識と言われるゆえんである。人によって常識になったり非常識になったりするものが「常識」であるわけがない。人が生きて死ぬ、自分が生きて死ぬ、この当たり前の恐怖と奇跡、これの常識を見落としたまま常識の何たるかを論じても始まらない。

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