犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「哲学者」と「哲学研究者」

2007-09-18 15:43:20 | 実存・心理・宗教
哲学は社会の役に立たない。その通りである。しかし、その役に立たない方向性にも2つある。1つは、表面的な現象を追いかけてばかりいる高度資本主義社会の中に根本的な疑問を投げ込むことによって、社会の円滑な進行を妨害するという作用である。これは、いわば「哲学者」によってなされる作用である。この意味で、哲学者は役に立たないばかりか危険人物である。しかしその反面、これ以上役に立つ人物はおらず、混迷した議論に道筋を付ける理論を提供する人間もいない。もちろん、肩書など何の関係もない。この「哲学者」は、通常の生活を送っている人々の中にも潜在的に沢山存在する。

これに対して、「哲学研究者」は、役に立たない上に危険人物でもない。他のマニアックな趣味の世界に没頭するのと同じことであり、人畜無害である。世間一般の哲学者に対する評価は、抽象的で役に立たない理論ばかりを振り回しており、現実離れして生活力がないというものが多いが、これはかような研究者に対して最もよく当てはまる。法律学から哲学に対して、さらには法哲学に対して向けられる批判も同様である。法とは何か、正義とは何か、法と道徳の違いとは何か、このような大上段の問題の立て方は、実際のところ何の役にも立たない。それよりも企業法務に精通し、株主総会に関する議論を厳密に深め、取締役の第三者責任(会社法429条)に関する体系的な理論を展開したほうが社会の役に立つという話にもなってくる。

「哲学研究者」が役に立たないことの虚しさは、想像以上のものがある。ニーチェ研究者を名乗るのであれば、常識的に知っておかなければならないことが山ほどある。ニーチェがルー・ザロメに求婚して断られたのはなぜか。妹エリーザベトとの不和の原因は何か。このような研究は、やはり面白い人にとってはたまらなく面白い種類のものであり、ここがわからなければニーチェの思想はわからないと言われれば、そうと言えないこともない。しかし、人間の短い人生においては、他に考えなければならないことも山ほどある。ニーチェの精神錯乱の原因についても、娼婦からの梅毒の感染であれば3年程度で死亡するのに対し、実際には11年も生きていることから、未だにその原因について研究者の間で争いがある。このような争いは、結局のところ、古いカルテを引っくり返して分析するという作業に終わる。

ニーチェの著作は、生前にはあまり売れず、全世界の人類に向かって語っていたのに実際には周囲の友人にしか読まれないといった状況に苦しんでいた。画家でいえばゴッホと似ている。ここで、現在では世界的な大哲学者として評価されていることについて、後世の人間が感慨を持ってしまえば、そこで哲学的思考は終わりである。さて、感慨を持っているのはいったい誰なのか。哲学は「哲学すること」という進行形で現れるしかなく、過去の残骸のお勉強に走ってしまっては台無しである。ニーチェは、自分の著作が日本語にも翻訳され、ちくま学芸文庫から『ニーチェ全集』なるものが発行されていることなど知る由もない。死後に名を残したことは死んでみなければわからず、しかし死んでしまえば死後に名が残ったかどうかはわからない。「哲学者」と「哲学研究者」の違いは、このような現実に直面して感慨を持って終わるか、それとも感慨を持ちたくなる自分は一体誰なのかを手放さないか、この違いであるとも言える。

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