犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

関係世界の毀損

2007-09-01 13:22:04 | 国家・政治・刑罰
近代社会における「自立した個人」というカテゴリーからすれば、犯罪によって殺された者には注目が向かないのは当然である。殺されてしまえば、その時点で自立した個人も消滅するからである。残された家族についても、単に自立した個人の集まりであるから、遺族特有の悲しみの問題は捉えられない。むしろ、残された家族が悲しむという態度そのものが、近代社会における自立した個人のカテゴリーからは受け入れられない種類のものである。家族であろうと誰であろうと、近代社会における個人は自立しているのだから、論理的に悲しむ理由がないからである。

犯罪という現象を全般的に捉える限り、近代社会の自立した個人という枠組みは、それを説明するには力不足である。ほんの一部分しか説明できていない。これに対して、ヘーゲルによれば、人間とは歴史的存在であり、それは人倫的組織の関係性を内在化させている。人間はいくつもの連続的な現在を互いに関連させ、過去から将来をも関連づけ、自分がいかなる関係性を生きるのかを考えるものである。現在の生は、将来における生の展望と必然的に連続しており、これが人間が生きるということである。そして、このような人間の人生を強制的に断ち切るのが犯罪被害である。近代社会の自立した個人という説明は、犯罪という現象を全般的に捉えることを妨害する。

個人の自立というイデオロギーは、全体主義に対立するものとして位置づけられる。これが人権論であって、犯罪そのものよりも、その後の取り調べにおける自白強要のほうに関心が移ってしまう。これでは犯罪という現象が捉えられない。弁証法によれば、個人と全体とが対立して動かず、相互に戦っているという構図は錯覚である。個人は全体に反転し、全体は個人に反転する。個人の個人性の中には、すでに深く関係性が染みこんでいる。すなわち、共同態的関係そのものが、個人を個人として存立させている基盤となっている。これは逆らうも逆らわないも、現にそのようでしかあり得ないのだから仕方がない。

近代社会における自立した個人のモデルにおいては、犯罪によって家族を殺された者が悲しむなどということは、「あってはならない」。近代刑事裁判も、これを当然の常識としてきた。しかし、あってはならないと言われても、あるものは仕方がない。我々は普段の生活において、親しい人との間で情緒の共有状態を生きているからである。犯罪による死とは、共同態的な関係世界の毀損であり、生前において成立していた情緒による共感力をも切断するものである。それゆえに、遺族の死者に対する愛情、自分自身に対する悲しみ、犯人に対する怒りは、すべて不可分である。仏壇に手を合わせ、墓前で手を合わせている限り、犯人に対する怒りのみを消すことは不自然である。「自立した個人」のカテゴリーは、この単純な事実を見ようとしない。