犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

歴史の中から生み出された人類の叡智

2007-09-22 18:11:17 | 実存・心理・宗教
光市母子殺害事件の加害少年の弁護団に対する非難の声に対して、広島県弁護士会の会長が勇ましい声明を出している(http://www.hiroben.or.jp/hirobenkai/seimei.html#26)。「亡くなられたお二人のご冥福を衷心よりお祈りする」「遺族の方の心情も察するに余りあるものである」と述べつつ、「しかしながら」でひっくり返した後が10倍以上長い。これは政治的な言論には付き物であるから仕方ないが、注目すべきは、「弁護人依頼権は人類が過去の刑事裁判の歴史の中からその叡智をもって生み出した被告人の最も重要な権利である」との主張が、国民の広い違和感と怒りの声と全く噛み合っていないことである。

多くの国民は、なぜ「人類の叡智」論よりも、遺族の本村洋さんの言葉に説得力を感じたのか。それは、犯罪という加害者・被害者双方にとって実存的な問題を、正面から人生の文法で語っているか否かの差である。人間が生きるということは、他の誰にも代わることのできない、かけがえのない一度きりの人生を生きることである。キルケゴール(Soren Kierkegaard、1813-1855)に始まる実存主義は、ヘーゲルの歴史論を徹底して忌み嫌ったが、これは「一度きりの人生」に関する感受性の差異に基づくものである。人間が一度きりの人生を生きるということは、人類が歴史から叡智を生み出してゆくという意味での進化論とは相反する。人間が実存するとは、生まれた瞬間から常にゼロの地点から生き始めることであり、それ以前の歴史に束縛される筋合いはどこにもない。

どんなに国民に非難されても弁護人依頼権の趣旨を貫く弁護士は、いくらでも資料を集めてくる。無限に文献を集め、それに基づいて精密な理論を展開し、簡単には倒されないような理論武装をする。その反面として、目の前の人間の声を聞かない。このような政治的な議論は、殺人事件という生死が直接に問題となる事項に際しても、人間の生死を見ようとしない。目の前の勝負に夢中になっている間は、人間は自分が死ぬべき存在であることを見事に忘れる。「遺族の方の心情も察するに余りあるものである」ならば、どうしてその時点で絶句しないのか。なぜその後に長々と演説を述べることができるのか。

法律論においては、人類が歴史の経験から学び、前の時代が到達したとことを引き継いで、さらに先へと進歩するというパラダイムが当然のものとして用いられている。そこでは、民主主義の結果として得られた弁護人依頼権を国民が自己否定するなど、歴史の流れに逆行する愚行であると断罪せざるを得ない。ところが、一人の人間がこの世に生まれて自分の生を生きるということは、一回限りの出来事である。そこには進歩も叡智もあり得ない。多くの国民の弁護団に対する広い違和感と怒りの声は、この実存的な真実をごく普通に指摘したまでである。ここでさらに弁護団に「弁護人依頼権は人類が過去の刑事裁判の歴史の中から叡智によって生み出した最も重要な権利である」と繰り返されても、そのような主張自体が実存不安に鈍感な政治論であるから、話はますます噛み合わない。