犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第8章「学問」より

2007-09-19 10:41:36 | 読書感想文
昨日は、広島市の暴走族追放条例違反事件の最高裁判決があった。平成14年11月の事件について最高裁まで5年もかけて争うことの虚しさもさることながら、裁判での論点設定とその争われ方が虚しい。暴走族の被告人は、「広島市の条例は憲法21条の集会の自由を過剰に規制しており違憲無効である」として、無罪を主張して争ってきた。しかし最高裁は、「条例は暴走族や類似集団だけが規制対象だと限定的に解釈でき、憲法違反とまでは言えない」と述べ、被告人に有罪判決を言い渡した。判決の是非以前に、何とも脱力するニュースである。法治国家は大変である。

我が国の社会問題において、9条以外に「憲法」という単語が登場するのは、このような場面に限られている。これでは国民の間の憲法論議が盛り上がるわけがない。常識ある国民であれば、暴走族が爆音を立てて周辺住民に迷惑をかけながら暴走する行為に「集会の自由」や「人権」という言葉を使うこと対しては、反射的に違和感を持つのが当然である。そんなに罪を負うのが嫌であれば、最初から暴走しなければ済むだけの話である。ところが、近代法治国家の最高裁は、このような訴えを大真面目で議論する。暴走族はうるさいという話を、どうしてここまで難しくできるのか。

最高裁の2人の裁判官は少数意見として、「限定解釈には無理がある」「服装や集会の自由に対する規制と市民の不安解消という利益が著しく不均衡」として、違憲判断を示した。ご苦労様なことである。高級車で官舎と最高裁を往復している司法エリートは、暴走族が爆音を立てている現場など知らないし、知ってはいけない。憲法21条の客観的な法解釈を完結させるためには、理念の世界で純粋に精密なロジックを構築しなければならず、それが法治国家における公平な裁判所を実現するという建前である。事件は広島市の繁華街で起きているのではなく、威厳ある最高裁の大理石で作られた大法廷で起きている。もちろん実際には、このようなフィクションが可能であるはずがない。王様は裸である。


p.117より
馴れるということは恐ろしいことで、初めは変だと感じていたものも、それが続き、あるいは増えてゆくうちに、それが普通であると感じるようになってゆく。鈍麻する、摩耗するのである。人間として最も大事な部分、人間を人間たらしめている根本的な部分が、気づかないうちに変質するのである。

p.123より
学問と生活の一致を目指すなどとうそぶく者たちの言を、私はまったく信用していない。学問と生活は最初から一致しているからである。別々だと思っている者だけが、それを一致させるべきだと言うからである。