犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

無用の用

2007-09-09 18:42:46 | 実存・心理・宗教
犯罪者は裁判や刑罰を受けることによって、「自分はあんなことをすべきでなかった」「被害者に申し訳ない」と反省するよりも、「運が悪かった」「まずいことになった」と感じるものである。多くの場合、これが本音である。ニーチェは、犯罪者には良心の呵責が見られるものではないと述べている。哲学者とは、一般的に世の中で大声で言ってはならないことを言ってしまう人種であるが、ニーチェは特に言ってはならないことを言ってしまった哲学者である。永井均氏は、ニーチェの理論はいかなる意味でも現代社会の役に立たないと述べている。その通りである。

しかしながら、役に立たないものには、役に立たないなりの役立たせ方もある。それは、根本的な解答があると信じて議論している真っ只中に、そんな解答などどこにもないという解答を示すことである。根本的な解答があると考えている代表的なものが「修復的司法」の理論であるが、これは加害者が罪の重さに気づいて反省と償いの念を深めることを目的としている。しかし、被害者の前で頭を下げた加害者が再び犯罪に走ってしまったという例も多い。ここで最も割を食うのは、振り回されてばかりの被害者である。立ち直りに理解を示して更生を期待した挙句に裏切られるのであれば、最初から期待などしないほうがましである。

「憎しみからは何も生まれない。だから加害者を赦さなければ被害者も幸せになれない」。このような理論は、根本的な解答があると信じる立場からは、非常に説得力がある。しかし、ニーチェに言わせれば、これも屈折したルサンチマンである。憎しみからは何も生まれないことが事実であるとして、赦すことからは何かが生まれるのか。赦した挙句に裏切られて苦しむ、裏切られないか不安で苦しむ、本当に赦して良かったのか自問自答して苦しむ、これは人間として当然である。しかし、赦すことは正しいというルサンチマンは、この哲学的懐疑を封印させる。憎しみだけでは何も生まれないのは確かであるが、そもそもどのように頑張ったところで何も生まれないものは何も生まれないのだから、このような堅苦しい理論にがんじがらめになるのは息が詰まる。犯罪者は本気で反省などするものではない、この恐るべき端的な事実を直視するだけで事態はかなりスッキリする。

被害者の裁判参加を初めとする犯罪被害者保護法制の最大の障害が、加害者の更生という価値である。いくら「加害者が被害者と向き合うことが最大の更生になる」といったところで、加害者の主目的は反省ではなく刑を軽くすることであり、隙あらば罪を否認して無罪を勝ち取ろうとする行動から逃れることができないとすれば、この障害は消えない。近代刑法の目的刑論の絶対に譲れない大前提は、罪を犯した人間は絶対に更生できるという点にある。これに基づく死刑廃止論が強硬なのも、更生の可能性を永遠に奪ってしまうことが論理的に絶対に認められないからである。しかし、ニーチェに言わせれば、そのような可能性など幻想である。「加害者が厳罰に処せられることが何よりの救いになる」と考えている被害者に対して、「加害者が更生することが何よりの救いになる」と考えるのが正しいという理論を押し付けるのは、端的に余計なお世話である。

しりあがり寿・祖父江慎 著『オヤジ国憲法でいこう!』

2007-09-08 15:00:57 | 読書感想文
第4条「真理や理想は幻想なり」(p.109より)
いくら耳に心地良い「真理」や「理想」であったとしても、何人も、それを「唯一絶対なもの」「不変である正義」と押し付けられてはならない。押し付けられている時点で、それはたいてい幻想であったり、誰かの妄想であったりする。我々が平和のうちに生存する権利を行使するためには、「ちょっとうまくいってないこと」は追放せず、良い意味での「いいかげん」な態度でそれらに付き合っていくことが必要条件であることを確認する・・・・


憲法学者が激怒するようなパロディであるが、激怒したくなるのは図星を突かれているからである。日本国憲法を真面目に一言一句研究している法学者は、大衆は憲法を理解していないと苛立ち、日本は人権後進国だと嘆くのが常である。しかし、日本国憲法にはこう書いてあるから世の中はそのように構成されていなければならないという態度は、人間としては幼稚である。立憲主義、法治国家という理屈は、一見すれば誰にも逆らえない絶対的な真理のように見える。しかし実際のところは、そのように考えている自分が無条件に正しい、自分は正義を理解しているのだから反対派は絶対に間違っている、といった程度の主張にすぎない。学者が世間知らずの万年青年と揶揄される所以である。

オヤジ国憲法は、徹底的に脱力している。まあいいじゃないか。しょうがない。どっちでもいいや。そんなことしか書いてない。日本国憲法のように人間の自由を保障していないが、なぜか人間は自由になる。日本国憲法のように戦争の放棄も書かれていないが、なぜか戦争など起こりそうもない。逆に、憲法9条を有する日本では、なぜか「争いはいけない」という条文を守るために人々は熱くなって争っている。「戦いはやめましょう」という条文のために、人々は戦っている。すべての戦争とは人と人との争いごとであるならば、この争いをやめるための争いは一体どうしたことか。

オヤジ国憲法の補則には、「キミらのひとりひとりが『いま』『ここ』に生きているという奇跡を、心から祝福するものである」と定めている(p.171)。これも日本国憲法には書けそうもない条文である。日本国憲法は、全世界の国民の永久の平和を念願し、侵すことのできない永久の人権を保障すると定めているのだから、『いま』では短すぎるし、『ここ』では狭すぎるからである。しかし、有限の人生を生きるしかない人間が、「永久」を連発している日本国憲法を使いこなすことができるのか。大衆が憲法を理解せず、日本は人権後進国であることは、オヤジ国憲法からは実に理想的である。平和憲法を有する日本に生まれた国民の責務などと言われても、単に息苦しいだけである。

凶悪事件の一報を聞いて

2007-09-07 14:40:02 | 国家・政治・刑罰
凶悪な殺人事件のニュース速報を聞いて、通常の人間は、最初にどのような反応をするのか。まずは反射的に、人間として「許せない」と感じるのが通常であろう。「犯人は絶対に死刑にすべきである」、このような怒りを反射的に持つのが通常の人間である。そして、そのほんの数秒後から、最初の純粋な直感に対して従来の知識が混じることにより、段々と考えがまとまってくる。そして、多くの人間は、「法治国家では正式裁判が必要であり即刻死刑にすることはできない」、「凶悪犯人にも弁護士がつくのも制度上仕方がない」といった辺りで納得し、その線で落ち着いてゆくことになる。

この数秒の間の移り変わり、そして絶対に変わらない順番、これは見落とすことのできない真実を指し示している。凶悪犯罪の一報を聞いた時の一秒一秒の自分の心の動き、これを丹念に辿ってみれば誰でもわかることである。人間の研ぎ澄まされた直感は、まずどこへ向かっているのか。被害者の無念か、死の恐怖か、遺族の悲しみか。それとも刑法の条文への該当性か、罪刑法定主義に基づく無罪の推定か。もちろん客観的な刑法のパラダイムからすれば、被害者が殺された瞬間に、殺人未遂罪は殺人既遂罪に変化しているはずである。刑法203条(殺人未遂罪)の構成要件は、混合的包括一罪の吸収関係として、刑法199条(殺人既遂罪)に吸収されて消滅しているはずである。被害者が2人であれば、殺人罪は次々に成立し、その瞬間に刑法45条による処理(併合罪)が生じているはずである。これが法治国家において、客観的に存在しているはずの動きである。しかし、その客観性を、この地球上で一体誰が実際に捉えているというのか。

ヘーゲルが「人間を動物のように扱う理論である」と批判したのが、フォイエルバッハの心理強制説であり、それに基づく罪刑法定主義の思想であった。罪刑法定主義の思想は、殺人事件の一報を聞いた人間に対して、まず冤罪の防止、誤認逮捕の防止という視点から物事を捉えることを要求する。被害者や遺族に同情する世論に対しては、感情によって理性を失っている大衆の無知であり、冤罪の温床であるとの評価がなされる。しかし、実際に凶悪事件のニュースを耳にした人間において、一瞬のうちにこのような視点を持つことは果たして自然であるのか。法治国家、弁護権といった理屈はその通りであるとしても、それは「人間として犯人は許せない」という直感に遅れてくる後知恵ではないのか。「逮捕された容疑者が犯人であるかは裁判が確定するまでわからない」「犯人に殺意があったか否かは裁判が確定するまでわからない」という建前が納得できるとしても、それは「許せない」という直感には時間的に勝つことができない。

民主主義における議論は、多くの場合には深まらずに迷走する。それは、最初の一瞬における言葉にならない瞬間を捉え損ない、客観的な出来事の存在を前提として、それを分析しにかかることと無関係ではない。いかなる出来事も、瞬間的な衝撃を伴って人間を訪れる。もし、人間が真理に近づこうと思うならば、その瞬間における自分の心理状態を逃さないように保管し、それを自問自答して深めるしかない。もちろん、「犯罪とは客観的な刑法の条文への適用である」と考える近代国家においては、このような真理を追求することはタブーである。専門家は、無知な大衆とは一線を画するエリートでなければならないからである。しかし、この合理的であるはずの近代の理論が、さらなる混迷を招いているとは、一体どうしたことか。

小西聖子編著 『犯罪被害者遺族』 第6・7章

2007-09-06 19:34:29 | 読書感想文
第6章 自分がその立場になったとき
第7章 つらい思いをした人と話をするとき

犯罪被害者の2次的被害は、近代刑法のパラダイムに基づくものであり、人間が人工的に生み出している被害である。法律の枠を外して哲学的に見てみれば、犯罪被害者の2次的被害は、なくそうと思えばいくらでもなくせる話である。法廷における反対尋問という制度や、警察署における参考人取調べという制度は、時代や場所による相対的な制度にすぎない。とりあえず近代刑法が採用しているルールであり、絶対的なものではない。人間による人工的なシステムは、いつでも変えることができる。しかし、従来の法律的な考え方は、なかなかこの点を直視しようとはしない。

被害者を中心としたコペルニクス的転回の地点に立ってみることは、何十年も法律の世界に浸かっている法律家にとっては、非常に困難なことである。近代刑法の枠がはまってしまうと、2次的被害の何たるかが見えなくなってくる。被害者にとっての2次的被害の最たるものは、被告人の法廷における防御行為であり、否認であり、被害者が求めているよりも軽い刑が言い渡されることであり、無罪判決が言い渡されることである。近代刑法の枠がはまっている法律家からすれば、このようなものは、最初から「2次的被害」のカテゴリーからは問答無用で外される。しかしながら、被害者の最大の傷がこのようなものから生じているという事実だけは、どうしても否定できない。

日本が戦後50年もの間、犯罪被害者の存在を見落としてきたのは、近代刑法のパラダイムの構造そのものに原因がある。すなわち、裁判とは被告人が有罪か無罪か、その刑の重さはどうすべきかを決める場所であって、犯罪被害者を保護する場所ではない。これは、現在の裁判制度の前提とすれば、もはや常識になっている。しかし、このように「近代刑法」といった時代によって変わる常識は、その時代に生きる人間に視点の固定をもたらす。この視点を変えることは、何も近代刑法のパラダイムの構造を破壊するという大げさな話ではない。現状を率直に見て、現状を相対化する視点を持つだけの話である。

近代刑法のパラダイムが犯罪被害者を保護する場所ではないことは、従来の人権論からすれば、それ自体が正義でなければならない。近代刑法の鉄則からすれば、犯罪被害者の保護のために被告人の人権がないがしろにされることだけは、絶対に許されないということになる。法律家が犯罪被害者に心のケアを与えてその怒りを静め、厳罰感情を抑えようとする手法は、多かれ少なかれこの点の動機を含んでいる。これに対して、被害者を中心としたコペルニクス的転回の地点に立ってみれば、近代刑法のパラダイムも時代と場所によって異なる仮説であり、必要悪以上のものではない。刑事裁判が犯罪被害者を保護する場所ではないことは当たり前のことであり、当たり前のことは当たり前であるがゆえに恥ずべきことであり、残酷なことである。

「命の重さ」の軽さ

2007-09-05 13:17:40 | 国家・政治・刑罰
「いじめ問題」と「いじめ自殺問題」は分けて論じられるべきであるという議論がある。これは、科学主義、実証主義による過度な分析的手法の悪弊である。様々ないじめの形態について、○○型、△△型と分類したところで、その分類自体が自己目的化して訳がわからなくなるのがいつものパターンである。さらに、科学主義の限界に直面すると、急に「命の重さ」が出てくるのもいつものパターンである。いずれにしても地に足が着いていない感じである。「いじめ問題を解決しよう」「いじめを撲滅しよう」という大上段の目的を掲げてしまう限り、これは必然的に政治的なイデオロギーとなる。

「いじめ問題」と「いじめ自殺問題」は分けられない。人間という生き物は、どういうわけか、いじめられると人生に絶望する。子どもも大人も、執拗ないじめを受けたときには、なぜか生き続けるよりも死にたくなってしまう。この端的な事実よりも強力な事実はない。いじめは死に直結するからこそ問題なのであって、「いじめ問題」と「いじめ自殺問題」とを切り離してしまえば、何をどこから論じているのかわからなくなる。いじめを受けて自殺した子どもにとっては、世界も宇宙も消えてしまったのであるから、当然「いじめ問題」も「いじめ自殺問題」も消えており、両者の区別も消えている。

今日の様々な問題は、それが複雑化した社会において生み出されているがゆえに、社会問題の枠組でしか捉えられない。そして、肝心な点を見落とす。それが「人生」の文法である。生きる意味がわからないならば、それは死を見なければわからない。これが弁証法である。学校は生徒のいじめ自殺に直面すれば、全校集会を開いて「命の重さ」を訴えるしかないが、この文法が弁証法的に逆立ちしているのは明白である。人間は生きている限り、必ず死ぬ。人生に「目的」という概念を持ち込むならば、それは時間的にも論理的にも、究極は死でしかない。生きがいを求めて死を恐れ、その結果として自らの死を招き、周囲はそれを処理できずに慌てる。人間が政治的に「自殺を減らそう」と語って熱くなるとき、見事に自分自身は未だ死んでいないことを忘れる。そして、自殺した本人とっては、「増える」「減る」という概念自体が消滅していることを忘れる。

へーゲルの社会哲学的な視点は、科学主義、実証主義による過度な分析的手法の悪弊が目立つ現代においては、大いに役に立つところがある。本来、哲学というものは、死、自由、私、自我、意識、神、自然、人生、道徳、言語、時間、他者といった概念のすべてを問題にするものである。これらの思考は、一見すれば生活から遊離した抽象的な真理を追究するように見えるが、その根本動機において、人間の生の必要に根ざしていることは当然である。いじめ問題の解決に必要な視点は、命の重さではなく、命の軽さである。生きているうちは命が軽く扱われて、死んだ途端に重くなるというのでは、笑うしかない。

池田晶子著 『人生のほんとう』 第Ⅰ章 常識 p.11~16

2007-09-04 11:46:18 | 読書感想文
池田晶子氏の死去が公表されたのが、今年の3月3日であった。早くも半年になる。池田氏が一貫して述べていたのは、「言葉」であり、「倫理」であり、「善悪」である。様々な犯罪や法律の問題についても、専門家の局所的なコメントばかりが飛び交う中にあって、池田氏の“形而中”から対象を捉えるカミソリのような言葉は、他に類を見ないものであった。それは、法律家の理解を超えており、法律家の間でまともに受け止められることはなかった。

『人生のほんとう』は、直接に犯罪や法律を論じたものではないが、アカデミックな刑事法学(刑法・刑事訴訟法・少年法)、犯罪学(刑事政策・犯罪心理学)の論拠を根本から覆すような地点を捉えている。しばらくはこの本を2~3節に区切って読み直し、犯罪被害者が見落とされてきた構造と、刑事法学のパラダイムで哲学的な問題に挑むことの困難さを考えてみたい。

刑法学は、本来であれば哲学的問題を避けては通れない。その最大の問いが、「なぜ人を殺してはいけないのか」という形で、生きている人間を苦しめる。しかしながら、現実の法治国家においては、このような抽象的な問題に足を取られている暇はない。とにかく目の前の裁判において犯罪者を裁くことが先であり、わからないものはわからないまま哲学に丸投げするしかない。その挙句の果てが、自由主義と民主主義に基づく罪刑法定主義の思想、「無罪の推定」のカテゴリーである。その結果として、「『本当に被告人が犯人であるかわからない』ことがわかっている」という面倒くさい理屈にがんじがらめになっているのが法律学である。

刑事法学における逆らえない大前提は、国民の「自由保障機能」である。これを疑ってかかるような人間は、そもそも現在の刑事法学の土俵には乗せてもらえない。近代法治国家においては、何よりも法的安定性・予測可能性が保障されなければならず、罪刑法定主義・一罪一訴因一判決の原則・二重の危険の原則などは、絶対に守られねばならない鉄則であるとされる。どのような行為をすればどのような罪になるか、これが明確に定められていないような法律は、「漠然性の故の無効の理論」によって違憲無効とされる。近代刑法の理論は、刑法が本来直面しているところの哲学的問題から逃避し、近代憲法の理論の体系の下に取り込まれてきた。

高度に体系化されたアカデミックな刑事法学(刑法・刑事訴訟法・少年法)は、人生の根本的な疑問の発生を許さない。法学部の授業はエクセルやワードのパソコン教室と同じであり、決まり切っていることを覚える際には、「なぜ?」という疑問は封印しなければならないとされる。なぜ左クリックが左クリックなのか、右クリックではいけないのかを考え始めれば先に進まないのと同じである。法律学においては、条文そのものの存在を疑うことは許されず、人間にできることは客観的な法の解釈だけである。そして、刑法学は、だからこそ厳格な学問であるとされてきた。人が人を裁くことの重さは、裁判官の恣意性を抑制して客観的な基準を確立し、死刑か無罪かの判定が偶然に左右されてはならないという理念に結実する。

戦後民主主義の下における刑事法学は、このような路線で突っ走ってきた。しかし、哲学的な問題が抑えられるはずもない。それが、犯罪被害者の声において示されるようになったということである。哲学者の視点は、加害者側に留まることを許さない。そして、加害者側からの視点しか持たない刑事法学も許さない。

論理の形式だけを取り出すのは難しい

2007-09-03 17:08:31 | 国家・政治・刑罰
山口県光市の母子殺害事件の被告弁護団のメンバーで広島弁護士会の足立修一、今枝仁両弁護士らが、大阪弁護士会の橋下徹弁護士を相手取り、損害賠償を求める訴えを広島地裁に起こした。同事件においては、橋下弁護士がテレビ番組において被告弁護団に対する懲戒処分を求めるよう視聴者に呼びかける発言をしたことにより、弁護団に対するメールや手紙による懲戒請求が殺到していたものである。

このようなネット社会におけるバッシングの過熱に関しては、価値中立的な一般論からの批判がなされることが多い。「出口のない社会の閉塞感を背景に、誹謗中傷をゲーム感覚で楽しむ風潮がネットを中心に広がりを見せており、現代では一つ間違えば誰もが標的になりうる状況にある。従って、バッシングの内容とは別問題として、我々はネット社会の恐ろしさについて考え、冷静にならなければならない」。弁護団の弁護権を支持する立場からは、このような意見が述べられていた。有志の弁護士が500人以上も集まり、広島弁護士会の会長も緊急声明を出した。確かにこのような論理だけを取り出せば、全くその通りである。橋下弁護士に賛成しようが、被告弁護団に賛成しようが、ネット社会の恐ろしさを考えることは価値中立的である。

しかしながら、もし何かの事件で決定的な冤罪が発覚し、無辜の市民が濡れ衣を着せられたことが判明し、警察署や検察官へのバッシングが起きた場合、弁護士会は同じような声明を出すのか。これは通常では考えられない。むしろ弁護士会は、ネット社会を利用してバッシングを呼びかけ、煽る側に回ることが予想される。そこまでは行かなくても、沈黙を守りながら腹の中で笑っているのが通常である。出口のない社会の閉塞感、誹謗中傷をゲーム感覚で楽しむ風潮に警鐘を鳴らすという理論は、そのバッシングの内容とは切り離され、一見すれば価値中立的である。しかし、政治的な論拠として一定の主張に結び付けられるものは、価値中立的ということがあり得ない。複数の価値中立的な理論の中から、あるものを選択し、あるものを選択しないという行動において、そこにはすでに主義主張が表れている。

弁証法のメタ言語から眺めてみるならば、価値中立的な理論の存在こそが幻想である。価値を知らずして、いかにして価値中立を知るのか。あえて価値中立的な理論を唱えてみるならば、それは「価値中立的な理論は存在するという理論と、価値中立的な理論は存在しないという理論とが存在することそのもの」としか言いようがない。自らの主義主張で血眼になっている左右両陣営いずれにとっても、ネット社会はネット社会であり、バッシングはバッシングであることは争いがない。価値は価値であり、中立が中立であることも同様である。これらは台風の目のように不動である。議論の内容から独立して、論理の形式だけを取り出そうとするならば、実際のところ、このようなものしか残らない。

のり・たまみ著 『へんなほうりつ』

2007-09-02 11:40:33 | 読書感想文
変な法律が作られるのには理由がある。端的に、哲学的思考の不足である。法律は言語による構築物であるから、哲学不足とは、すなわち言語の不思議を忘れていることである。ある言葉がその意味を意味しているのはなぜか。その言葉はその意味以外のものを意味しないのはなぜか。この素朴な疑問を常に持っているような人が多数を占める社会では、変な法律など作られるはずもない。条文が際限なく細かくはずもない。ところが、哲学なき現実の法治国家は、どんどん変な法律を増やす一方である。

訴訟社会アメリカでは、「電子レンジに猫を入れてはいけない」と説明書に書いていなかったとしてメーカーを訴えた女性が裁判に勝ってしまったという逸話がある。このような訴訟社会が動き出してしまうと、国民はとにかく「法律に書かれていないことは許される」と考え、立法者は「とにかく広く網をかけておく」と考えるようになる。こうしてアメリカには、変な法律が大量に存在するようになった。ビジネス上の契約においても、とにかく想定外の事態をしらみ潰しに解消しようとして、ますますキリがなくなっている。契約書のコンテンツの利用区域として、「火星、地球を含む太陽系の惑星」と書かれたものまで存在している。穴を完璧にふさごうとすれば新たな穴を発見してしまう、これはソシュールやウィトゲンシュタインから見れば当たり前のことである。「法律の抜け穴」など単なるメタファーであり、実際に穴が開いているわけもない。

日本でも立法技術が向上するに従って、同じような現象が起きているようである。完璧な条文を作って事後のトラブルを防止しようとすると、穴が気になってしまい、結果的に変な条文になってしまう。例えば、「別荘所有者には税金を課す。ただし、生活保護を受けている所有者は減免する」という某市の条例がある。常識的に、生活保護を受けながら、何千万円もする別荘を持っているような人は考えにくい。しかし、ゼロとは言い切れないといえば、確かに言い切れない。この「存在する可能性がある」という所が気になってしまうと、法治国家はこの穴をふさいでおかないと気が済まなくなる。かくして、論理的に穴のない完璧な条文の完成である。完璧な法律であるが、変な法律である。これが笑えなくなったら危ない。しかし、このような条例を運用するお役所の書類がどんどん厚くなって、公務員は給料が上がらないのに仕事だけは忙しく、市民はお役所の仕事が遅いと言って怒るのでは、笑ってばかりもいられない。

法律家は、このような変な法律を批判することができない。これを批判するとは、哲学的思考に直面し、言語の不思議を思い出すことだからである。どんな高名な法律家であっても、自分自身が子どもの頃に言葉を覚えた瞬間は覚えていない。自分はいつ「法律」という単語を覚えたのか、「法律」という言葉が「法律」という意味であると知ったのはいつのことか、これは法律学者に聞いても誰も答えられない。このような問いは、法律学にとってはタブーである。聞いてはならない禁句である。この言葉の不思議に気付いてしまうと、法治国家における法的安定性も、法律単語の厳密な定義による一義的明確性の確保も、すべてが崩れてしまうからである。そして、これを知ってしまえば、それまで積み上げた研究が無意味になり、論文がゴミになってしまうからである。従って法律家も、変な法律の増加を防ぐことができず、むしろその推進に回ることになる。

関係世界の毀損

2007-09-01 13:22:04 | 国家・政治・刑罰
近代社会における「自立した個人」というカテゴリーからすれば、犯罪によって殺された者には注目が向かないのは当然である。殺されてしまえば、その時点で自立した個人も消滅するからである。残された家族についても、単に自立した個人の集まりであるから、遺族特有の悲しみの問題は捉えられない。むしろ、残された家族が悲しむという態度そのものが、近代社会における自立した個人のカテゴリーからは受け入れられない種類のものである。家族であろうと誰であろうと、近代社会における個人は自立しているのだから、論理的に悲しむ理由がないからである。

犯罪という現象を全般的に捉える限り、近代社会の自立した個人という枠組みは、それを説明するには力不足である。ほんの一部分しか説明できていない。これに対して、ヘーゲルによれば、人間とは歴史的存在であり、それは人倫的組織の関係性を内在化させている。人間はいくつもの連続的な現在を互いに関連させ、過去から将来をも関連づけ、自分がいかなる関係性を生きるのかを考えるものである。現在の生は、将来における生の展望と必然的に連続しており、これが人間が生きるということである。そして、このような人間の人生を強制的に断ち切るのが犯罪被害である。近代社会の自立した個人という説明は、犯罪という現象を全般的に捉えることを妨害する。

個人の自立というイデオロギーは、全体主義に対立するものとして位置づけられる。これが人権論であって、犯罪そのものよりも、その後の取り調べにおける自白強要のほうに関心が移ってしまう。これでは犯罪という現象が捉えられない。弁証法によれば、個人と全体とが対立して動かず、相互に戦っているという構図は錯覚である。個人は全体に反転し、全体は個人に反転する。個人の個人性の中には、すでに深く関係性が染みこんでいる。すなわち、共同態的関係そのものが、個人を個人として存立させている基盤となっている。これは逆らうも逆らわないも、現にそのようでしかあり得ないのだから仕方がない。

近代社会における自立した個人のモデルにおいては、犯罪によって家族を殺された者が悲しむなどということは、「あってはならない」。近代刑事裁判も、これを当然の常識としてきた。しかし、あってはならないと言われても、あるものは仕方がない。我々は普段の生活において、親しい人との間で情緒の共有状態を生きているからである。犯罪による死とは、共同態的な関係世界の毀損であり、生前において成立していた情緒による共感力をも切断するものである。それゆえに、遺族の死者に対する愛情、自分自身に対する悲しみ、犯人に対する怒りは、すべて不可分である。仏壇に手を合わせ、墓前で手を合わせている限り、犯人に対する怒りのみを消すことは不自然である。「自立した個人」のカテゴリーは、この単純な事実を見ようとしない。