犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

伊藤真著 『憲法の力』

2007-09-15 14:28:06 | 読書感想文
伊藤氏がこの本を書いた動機は、怒りである。「今の改憲への一連の流れは、憲法への冒とく、民主主義への冒とく、そして私たち国民への冒とくにあふれているからです。この状況は、『改憲』ではなく、『壊憲』といえるものだと思います」(p.198)。このような怒りを動機とする理論は、一緒に怒っている人にとっては破壊的な説得力を持つのに対して、そうでない人にとっては単にうるさいだけの話である。伊藤氏は「護憲派」ではなく「立憲派」を名乗っているが、自らを何らかの派閥に属させるという点ではどちらも変わりがない。本人がいかに叫んでも、世間的には護憲派に分類されるのがオチである。

伊藤氏は司法試験界のカリスマと呼ばれ、司法試験界においては知らない人はいないというほど有名であるが、一歩外に出れば無名という種類の人物である。各種集会での講演活動をしている割には広がりを見せず、宮崎哲弥氏のように評論家として名を挙げているわけでもない。各種集会といっても、最初から結論が出ているタイプの集会ばかりであって、いつも同じような聴衆を相手に話しているのでは、いつまでも少数派に止まっているのも仕方がない。その挙句として、「少数派の人権を尊重せよ」と主張して多数派を形成しようとするのではますます仕方がない。伊藤氏は、民主主義という文脈では国民に期待しつつ、大衆社会という文脈では国民に苛立っているが、両者が区別できるわけもない。

伊藤氏が宮崎氏のようにメジャーになれないのは、憲法が国家権力を縛るためのルールであるということを前提としつつ、国民に憲法への関心を持つように訴えている点に矛盾を抱えているからである。法律は国民の自由を制限するルールであるが、憲法は国家権力が義務を負うルールであり、国民は名宛人ではない。これが憲法と法律の違いである。そうであれば、多くの国民にとっては、憲法などに関心を持たないのが通常の事態である。少なくとも、「国民は憲法に関心を持つべきである」という結論にはそのままつながらない。この点について伊藤氏は、自分は若い頃は憲法に無関心であり、これを反省して今は憲法の素晴らしさを子どもに教えようとして「憲法の伝道師」と名乗っているのだと述べているが、これでは評論家として評価されるはずもない。

伊藤氏は、犯罪被害者に関して次のように述べている。「私たちは、刑事裁判という公的な制度の問題と、復讐心という個人的な問題を区別することから始めなければなりません。国家が私的な復讐心に加担することは、国家の目的に反します。国家はあくまでも、国民が人権を保障されて安心して暮らせる社会を作るためのものです。はっきり言えば、刑事裁判は被害者のためにあるのではありません。これが近代文明国家の刑事司法制度の本質です。被害者のケアが不十分だと、被害者も刑事裁判という公的な場面に怒りを訴えていくしかなくなってしまいます」(p.102~104より)。国家権力と市民という二項対立の図式を崩さずに、被害者という異質なものを処理しようとすれば、このような結論に至るしかない。そして、苦し紛れに「保護」「ケア」を持ち出すしかない。しかしながら、人間の苦悩を「ケア」に押し込むような浅薄な理論が、現実の被害者の声に耐えられるはずもない。

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