犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

現世的な利益

2007-09-11 18:33:09 | 実存・心理・宗教
福岡市東区におけるの幼児3人が死亡した飲酒運転・ひき逃げの事故の裁判においては、例によって裁判所で細かい事実認定が続いている。被告人はいつブレーキを踏んだのか、そんなことは本人だけが知っていることであり、他の人間にはわからない。しかし、近代合理主義による思想は、これが科学の力によってわかるはずだという幻想の下で話を進めている。そして、多額の税金を投じて自動車工学の専門家3人が2台の車の速度差やブレーキの有無を鑑定し、その結果として3人の鑑定意見が割れて大論争になっている。被害者遺族が疎外されているというならば、まずはこの科学主義信仰を直視しなければ話にならない。

被告人は、自らの刑を少しでも軽くすることを求めて、裁判では自らを防御することができる。これは、あくまでも「できる」という権利である。防御「する」でもなく、「しなければならない」でもない。最後は本人の意思である。刑事裁判の理屈においては、被告人が犯した罪を反省していることと、軽い罪を求めることとは両立するとされる。これは、倫理的には逆である。被告人が犯した罪を心から反省しているならば、どんな重い罪でも負う覚悟をしなければならない。実際にブレーキを踏んでいても、被害者遺族に心底謝罪したいのならば、「私はブレーキを踏んでいませんでした」と述べるくらいの覚悟は必要である。

近代刑事裁判は、すべては国家権力という絶対悪との関係で物事を捉えるため、その1つ1つが犯罪被害者に対して欺瞞的に作用する。これは人間の率直な欲望を隠蔽する。人間というものは、今も昔も、反省よりは軽い刑を求めるものである。刑を科される原因となった事実を直視することよりも、刑から逃れることを望むものである。これはこれで事実である。しかしながら、近代刑事裁判は、被告人が刑から逃れようとして自己弁護することを「善」であると断定する。ブレーキを踏んでいると記憶しているならば、その通りに述べることは当然として、さらにブレーキを踏んでいなかったとしても、「私はブレーキを踏んでいました」と主張することが「善」であるとされる。警察官や検察官が「悪」だからである。もちろん、被告人が罪を深く反省していることが「悪」とされるわけではない。軽い刑を求めて弁解をする「善」の絶対性の前には、罪を反省することは一歩退かざるを得ないという意味である。

自分の犯した罪を心から反省しているような被告人であれば、その人間はどんな重い罪でも負うことを受け入れ、弁解も否認も控訴もしようとしない。これは端的な事実である。反省している者が重い罪を受け入れ、反省していない者が軽い刑を求めて争うことは、人間は自らそうであるところのものに自らなっているという人生の深い真実を示している。防御する権利を利用するもしないも、被告人次第である。すべては自分の人生の選択である。ここで、被告人たるものは進んで軽い刑を求めなければならないという大文字の理屈を持ち出すのは、やはり国家権力という絶対悪を持ち出すルサンチマンのなせる業である。自分の人生を考えるのに、他人の理屈を借りてくる必要などないはずである。自分は3人の幼い子どもの命を奪ってしまった、この絶対的な事実の前には、ブレーキを踏むのが0.3秒遅かろうが0.7秒早かろうが、裁判で争われている事項は本質からずれた余興のような話である。

近代刑事裁判における被告人の権利は、どこまでも現世的である。それは、被告人の現世利益の追求に通じる。近代刑事裁判の理論は、この世の犯罪現象を解決するための1つの方法にすぎない。もちろん完全なものではない。だからこそ、犯罪被害者が割を食ってきたわけである。人権論が宗教的になると、近代刑事裁判の理論は完全であり、犯罪被害者が見過ごされるのもやむを得ないといって切り捨てられることが必然となる。これに対して、近代刑事裁判の理論は不完全であり、単なる仮説の1つにすぎないという自覚を持っていれば、犯罪被害者の問題も全く違った様相を見せる。