犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

政策論は政局に負ける

2007-09-13 10:20:11 | 実存・心理・宗教
昨日は、秋田県藤里町の連続児童殺害事件の初公判であった。最初の事件発生から約1年5ヶ月余りを経て、ようやく待ちに待った裁判が始まり、被告人の動機を含めた真相解明がようやく進むのではないかとの期待が高まった。ワイドショー的に盛り上がった1年5ヶ月前の熱も冷めて、ようやく事件から何らかの教訓を得られないか、その可能性が現実のものとなりかかっていた時である。ところが、ここに安倍首相の辞意表明のニュースが飛び込んで、この裁判に関する世論の関心は完全に吹き飛んだ。1年5ヶ月も待たされて、待ちに待った日が、よりによって最悪のタイミングだったわけである。

世論を盛り上げよう、国民全体で考えよう、このようなスタンスは、どうしても他のニュースとの関連性を免れることができない。古いところでは、平成6年の末に中学生のいじめ自殺問題で世論が盛り上がったことがあったが、平成7年の1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件が起こり、いじめ問題の議論が完全に吹き飛んだという例が典型である。悲惨な事件や事故が起きれば、犯罪被害者保護に対する世論は急激に盛り上がる。しかしながら、この情報化社会において、世論はあっという間に移り変わる。個々人の情報処理能力は、それほど種々の社会問題を同時並行で掘り下げて考えられるほど器用ではない。情報化社会においては、世論に対して訴えかける活動は、お互いに国民の関心の奪い合いとなる。

世論を盛り上げて社会を動かそうという主義主張は、署名を集めて政治家を動かし、法律を変えようという方向に行くしかない。ところが、今回の安倍首相の辞意表明によって裁判のニュースがどこかへ行ってしまったという事実は、政策論が政局に負けることを意味している。これは何もマスコミの姿勢の問題ではなく、すべての人間の情報処理能力の問題である。いかにマスコミが連続児童殺害事件のニュースを詳しく伝えたとしても、安倍首相の辞意表明を知ってしまった日本国民には、事件の裁判のニュースを掘り下げて考えようとする余力がなくなる。犯罪被害に関する問題は、それが厳罰派であれ人権派であれ、世論を盛り上げて法律を変えるという方向性では一致している。しかし、その法律を作る国会、そして政府与党が、国民的な議論の盛り上がりそのものを妨害することがままある。2年前の小泉首相による郵政解散においては、障害者自立支援法などの多くの法律が審議未了で中断したまま棚上げされ、関係者がやり場のない怒りを抱えたこともあった。政治とはそういうものである。

秋田県藤里町の連続児童殺害事件の公判が始まったのは昨日の午前10時であり、午後1時前に安倍首相が辞意を表明するまでは、1面トップの記事となるはずであった。1年前から満を持して臨んだ記者もがっかりである。張り切っていた検察官もがっかり、弁護士もがっかりである。限りある紙面は大幅に削られ、しかも安倍首相に関心が移った多くの人には読まれない。政治的な野望が、本物の政治に潰されたわけである。1年5ヶ月も待たされた挙句、再び世論を盛り上がる千載一遇のチャンスは思わぬ形で消えた。犯罪被害者に関する世論の関心を高めようという政治運動は、他のニュースという新たな敵を自ら作り出す。大きなニュースが同じ日に重なれば、世間的な基準でより大きなニュースが勝つことは当然である。犯罪被害という実存的な問題を哲学的に掘り下げず、政治的に解決できる問題として捉えるならば、今後も昨日のような現象は止められない。