犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小西聖子編著 『犯罪被害者遺族』 第6・7章

2007-09-06 19:34:29 | 読書感想文
第6章 自分がその立場になったとき
第7章 つらい思いをした人と話をするとき

犯罪被害者の2次的被害は、近代刑法のパラダイムに基づくものであり、人間が人工的に生み出している被害である。法律の枠を外して哲学的に見てみれば、犯罪被害者の2次的被害は、なくそうと思えばいくらでもなくせる話である。法廷における反対尋問という制度や、警察署における参考人取調べという制度は、時代や場所による相対的な制度にすぎない。とりあえず近代刑法が採用しているルールであり、絶対的なものではない。人間による人工的なシステムは、いつでも変えることができる。しかし、従来の法律的な考え方は、なかなかこの点を直視しようとはしない。

被害者を中心としたコペルニクス的転回の地点に立ってみることは、何十年も法律の世界に浸かっている法律家にとっては、非常に困難なことである。近代刑法の枠がはまってしまうと、2次的被害の何たるかが見えなくなってくる。被害者にとっての2次的被害の最たるものは、被告人の法廷における防御行為であり、否認であり、被害者が求めているよりも軽い刑が言い渡されることであり、無罪判決が言い渡されることである。近代刑法の枠がはまっている法律家からすれば、このようなものは、最初から「2次的被害」のカテゴリーからは問答無用で外される。しかしながら、被害者の最大の傷がこのようなものから生じているという事実だけは、どうしても否定できない。

日本が戦後50年もの間、犯罪被害者の存在を見落としてきたのは、近代刑法のパラダイムの構造そのものに原因がある。すなわち、裁判とは被告人が有罪か無罪か、その刑の重さはどうすべきかを決める場所であって、犯罪被害者を保護する場所ではない。これは、現在の裁判制度の前提とすれば、もはや常識になっている。しかし、このように「近代刑法」といった時代によって変わる常識は、その時代に生きる人間に視点の固定をもたらす。この視点を変えることは、何も近代刑法のパラダイムの構造を破壊するという大げさな話ではない。現状を率直に見て、現状を相対化する視点を持つだけの話である。

近代刑法のパラダイムが犯罪被害者を保護する場所ではないことは、従来の人権論からすれば、それ自体が正義でなければならない。近代刑法の鉄則からすれば、犯罪被害者の保護のために被告人の人権がないがしろにされることだけは、絶対に許されないということになる。法律家が犯罪被害者に心のケアを与えてその怒りを静め、厳罰感情を抑えようとする手法は、多かれ少なかれこの点の動機を含んでいる。これに対して、被害者を中心としたコペルニクス的転回の地点に立ってみれば、近代刑法のパラダイムも時代と場所によって異なる仮説であり、必要悪以上のものではない。刑事裁判が犯罪被害者を保護する場所ではないことは当たり前のことであり、当たり前のことは当たり前であるがゆえに恥ずべきことであり、残酷なことである。