犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小西聖子編著 『犯罪被害者遺族』 第8章

2007-09-12 16:08:28 | 読書感想文
第8章 被害者と援助者

小西氏は次のように述べている。「あなたは何のために生きているのか。あなたの生死は誰が決めるのか。あなたの価値はどこにあるのか」。現代社会の日常生活においては最も避けられている種の問いであるが、犯罪被害という非日常の場面では、この問いが逃れられないものとして迫ってくる。多くの人がが避けているということは、すなわち誰しも潜在的にはこのような問いを保有しているということである。犯罪被害という経験は、この問いを顕在化させるものにすぎない。その意味で、犯罪被害者と一般人とを異なった人種のように捉えることは、現代人の「安全バイアス」であり、初めからピントがずれている。

法律の考え方は、すべてを0か1にデジタル化し、哲学的な問いをすべて棚上げする。どのような条件を満たせばその凶器には証拠能力があり、どのような証拠が揃えば被告人を有罪にできるのか、専門用語によって方程式を解くように決められてゆく。ここでは、被害者遺族の感情といったアナログなものは異質であり、そのままでは使えない。そこで、遺族の言葉は「厳罰感情」という概念にデジタル化され、さらに「量刑資料」という概念に変形され、法律の論理に取り込まれる。しかし、遺族のやり場のない感情は、もちろんそのような単純なものではない。息子はなぜ死ななければならなかったのか。哲学や宗教、倫理や道徳は何とかしてこの問いに答えようとして苦しむが、裁判は最初から答えようとしない。

近代刑事裁判の下では、仇討ちが禁止されている。そのことによって、まさに人間は仇討ちをしたくなることが自然であり、赦すことは不自然であることを示している。もしも赦すことが自然であるとするならば、人間は大昔から誰も仇討ちなどせず、赦し合っていなければ説明がつかないからである。「厳罰感情」という概念にデジタル化された遺族の言葉は、哲学的な問題を先送りするばかりではなく、それが法律的に解決できるという幻想をもたらす。しかしながら、突き詰めればA説とB説の折衷説、トラブルの交通整理を目的とする法律のカテゴリーにおいて、このような解決が図られたためしがない。デジタル化された遺族の言葉は、死刑廃止論と死刑存置論の対立、あるいは厳罰賛成派と厳罰反対派の対立において政治的に利用されるだけのものとなり、いつまでも堂々巡りを繰り返す。

人生は一度きりである。人生の不可逆性、人生の一回性が最も残酷な形で迫って来るのが犯罪被害である。人間は、それが取り返しのつかない現実であるからこそ、その理由を問いたくなる。被害者遺族の問いは、すべてこのようなものである。人間が立ち直ることも、人間が立ち直れないことも、すべては人間が生きることと同義である。被害者遺族が苦しいのは、それが生きることそのものだからである。生きたいという意欲なのか、生きなければならないという義務なのか、誰にもわからない。その意味で、犯罪被害者への援助を行うのであれば、まずは援助者が存在の謎に深く気付いていることが最低条件である。このような哲学的な難問を含む被害者への援助までが実証科学によってマニュアル化され、0か1にデジタル化されてはたまらない。