犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

生存と実存

2007-09-20 18:23:27 | 実存・心理・宗教
哲学の重要性を説こうとすると、色々な反発を食らうことになる。その中でも強烈なのが、「生活はどうするのか」という疑問である。これは強力である。実際のところ、哲学的な人間の多くは発狂などせずに、平凡かつ力強く生きている。借金や人間関係の悩みで自殺することなどまずあり得ない。そうは言っても、やはり形而上学である哲学は、形而下の生活には興味がない。行き着くところ、人類が連日朝から晩まで「自分はなぜここに存在しているのか会議」を開催し、経済が停滞することを理想とするのが哲学的な思想である。その意味で哲学的な人間は、実存ではなく生存を至上命題としているこの社会に対して、常に断絶と無力感と絶望を感じ続けることになる。

この無力感は、犯罪被害者遺族が加害者に感じる絶望と非常に似ている。被害者遺族の抱える最大の問題は、実存的な苦悩である。なぜ愛する人は殺されなければならなかったのか。遺族は、復讐でも恨みでもなく、この実存的な苦悩の解答を求めて裁判の傍聴に来る。加害者は車を運転して、その結果として自分の最愛の家族を奪ったのであるから、「もう一生車の運転はしたくありません」と述べるだろう。それを確認したいという思いで、遺族は裁判の傍聴に来る。ところが、多くの加害者は、裁判官の前で全く逆の供述をする。すなわち、「今後は気をつけて運転をします」というものである。

現代社会は、車がなければまずやって行けない。加害者も、別に旅行やドライブで車に乗るというわけではなく、仕事で乗るというだけの話である。現に、加害者から「一生車に乗れなかったら仕事もできず、生活もできず、私は一体どうしたらいいのか」と言われてしまえば、被害者遺族としては返す言葉がない。実存の苦悩からすれば、車で人をひき殺した人間は、それ以降は車に乗るたびにそれを思い出さなければならず、とても運転などできないはずだという正論が成り立つ。ところが生存の理論は、何よりもその加害者が現実問題としてその後どのように生活していくのかを問題にせざるを得ない。そして、形而下のトラブルを裁く裁判官は、遺族がどんなに「加害者が一生車の運転をしないように説諭して下さい」と訴えても、それに応えることができない。

それどころか、犯罪被害者保護の法政策は、次々と実存的な問題を生存の問題にすり替えようとする。確かに、交通事故で一家の働き手を失った配偶者や幼い子ども達には経済的援助が必要であり、国家的な補償が必要である。しかし、この側面がどんどん細かく技術的になると、当初の純粋な動機が見えにくくなる。しかも、被害者遺族としても、「なぜ愛する人は殺されなければならなかったのか」という実存的な問題の追求は精神的に苦しいため、法律の条文のどこをどう改正すべきであるという生存の問題に熱中することが1つの救いになってしまう。もちろん法制度がこのような方向で進んだならば、被害者遺族の割り切れない思いは、いつまでも違和感として残り続けることになる。