犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

新司法試験合格発表

2007-09-14 11:03:57 | その他
昨日は、第2回新司法試験の合格発表であった。私の知人にも、犯罪被害者保護に取り組みたいとの目的を持って、わざわざ仕事をやめて3年間も法科大学院に通って受験した人がいたのだが、本人の予想通り不合格であった。何しろ法科大学院の3年間は、全く興味の湧かない大量の判例の一言一句を読まされたり、敵対的買収防衛策やM&A、コーポレート・ガバナンス、コーポレート・ファイナンス、アカウンティングに関する文献を読まされたりして、苦痛以外の何物でもなかったとのことである。やはり条文や判例に絶対に逆らうことが許されず、常に時代の最先端の情報を追わなければならない法律の実務家という職業は、少しでも哲学的な思考を持ち、自分の頭でものを考えたい人には務まりにくいようである。

法務省や司法試験管理委員会(実際はその中の偉い人)、司法研修所(実際はその中の偉い誰か)による公式発表において、必ず触れられるキーワードがある。1つは「法曹の質の低下」である。そもそも法科大学院構想は、予備校の隆盛によって技術的なテクニックのみで簡単に合格してしまう受験生が増え、法曹の質が低下したことの打開策として始められたものであった。ところが、いざ法科大学院制度を開始してみると、今度は法曹人口が増えすぎてしまい、法曹の質の低下をもたらすのではないかという危惧が指摘されている。何が何だかよくわからない。人権感覚が鋭いはずの弁護士会も、人間に対して「質」という言葉を使い、それが上がった下がったといって株価のように扱うことに対しての違和感がないようである。そして、光市母子殺害事件をめぐっては、加害少年の弁護団と橋下徹弁護士とが、お互いに相手方を「法曹の質の低下」の例であると定義づけて攻撃し合う羽目になっている。

キーワードのもう1つは、「法科大学院の自然淘汰」である。新司法試験の合格率の低下は、そもそも法科大学院の乱立に原因があり、この点が大量の不合格者の出現を招いている。一度きりの人生において、せっかく苦労して入った会社をやめて、3年間も高い学費を払った多くの人達が、何の補償もなしに無職として放り出された。しかしながら、法務省や司法試験管理委員会(その中の偉い人達)は、そのような問題には興味がない。視点はあくまでも高く、法科大学院の設置の規制緩和である。国会で答弁をした有名な憲法学者によれば、法科大学院制度を失敗であると結論付けるのは時期尚早であり、あと10年くらい見てみなければわからないらしい。その間には、自然現象として合格率が著しく低い法科大学院への入学志望者は減少し、法科大学院の自然淘汰というプロセスが起こることが予想されるそうである。人権感覚が鋭いはずの弁護士会も、人間に対して「自然淘汰」という言葉を使い、それぞれの人間が一度きりの人生を生きているこの世において10年という物差しを持ち込むことに対しての違和感はないようである。

法律家の視点が長きにわたって犯罪被害者を見落としてきた理由も、司法制度改革に際しての法律家のコメントを見てみればよくわかる。法科大学院制度しかり、裁判員制度しかりである。あらゆる制度設計をめぐる問題は、それぞれの識者が「主観的にあるべきと思っていること」の争いにすぎないが、これが「客観的にそうなるはずのこと」であると信じられることにより、人間の人生の文法が切り落とされる。人間は「学生」「受験生」という肩書に変換され、「質」を吟味され、「合格者数」という数字に置き換えられる。次の新たな法律家として次の時代の制度設計をするのは、このような試験の中でも勝ち抜いた合格者である。従って、法律的、政治的な意味での被害者保護法制が進むことは、現在の司法制度改革の下ではあまり望めない。法曹の質が低下すればもちろん望めないし、法曹の質が向上すればますます望めない。

参考:明日の裁判所を考える懇談会(第15回)
http://www.courts.go.jp/saikosai/about/iinkai/asu_kondan/asu_kyogi15.html