犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

死刑にすれば終わりなのか

2007-09-28 17:28:04 | 実存・心理・宗教
9月25日の朝日新聞の投稿欄である「声」の欄に、山口県光市の母子殺害事件についての投書が載っている。


「死刑にすれば終わりなのか」 主婦・55歳
山口県光市で起きた母子殺害事件の差し戻し控訴審には疑問を感じている。(中略)元少年を精神鑑定した大学教授は、証人尋問で「元少年は精神的な発達が未熟で、今も殺した意味を十分に認識していない」と指摘した。(中略)元少年を全面的に弁護するつもりはないが、死刑にすれば終わりと言っていいのか。多くの専門家を交え、深い議論を重ねないといけないのではないか。私たちも、一方的な報道に振り回されず、冷静に判断することが大切だ。


読み終わった後、何だか非常に気持ち悪い。理屈は完璧であり、文章も上手くて読みやすく、どこがどう間違っていると指摘できるわけでもない。しかし、何だか騙されているような気がする。この違和感の源泉を述べるならば、殺人事件を語り、死刑を語っているのに、死を語っていないという点に尽きるだろう。「殺害」「死刑」という単語が表面を滑り、実存的な生死の生々しさが伝わってこない。

死刑にすれば終わりなのか。投稿者は反語的に「終わりではない」との解答を含意させているが、現実にそれは無理である。死は終わりだからである。死刑は単に死に方の1つであり、病気や事故、寿命や自殺と並ぶものに過ぎず、生死の下位概念である。死刑にすれば終わりなのかと言って熱く議論するとき、その人は自分が死ぬべき存在であることを見事に忘れている。投稿した55歳の主婦も、あと50年もすれば確実に死んでいる。死刑を死から切り離し、非人称の社会に視点を取るならば、このような緊張感のない政治的な主張に行き着くしかない。これでは被害者の死を見落とすのも当然である。このことに気付かせるためには、「故・本村弥生さん」「故・本村夕夏ちゃん」というように、その都度愚直に「故」を付して語ることが1つの方法ではあるだろう。

投稿者は、多くの専門家を交えて深い議論を重ねるべきだと述べているが、事件から8年経っても議論が深まっていないことからもわかるように、これはまず無理である。そもそも、殺人や死刑についての専門家に意見を聞けば答えが出るという前提が、どうにも緊張感を欠いている。このような専門家は、「生きている自分が第三者の殺人行為を見ている」という存在の形式そのものを見落とし、政策論としての主義主張を大声で叫ぶのが常であるから、議論が深まるわけがない。もし議論を深めようと思えば、殺人や死刑についての専門家である以前に死の専門家にならなければならないが、そもそも生きている人は死んでいないのだから、死がわかるはずもない。従って、この点の専門家は存在することができない。殺人者の心理分析や死刑制度の歴史に詳しい専門家は、生きている限りにおいて、「自称・専門家」であるしかない。