犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

真理と幸福

2007-08-16 19:32:57 | 国家・政治・刑罰
哲学とは、根本的な真理を求める営みであって、すべての欺瞞を看破する。それは時には反社会的であり、真理であるがゆえに公にしてはならない言明である。例えば、修復的司法においては、愛する家族を失った者の立ち直りが目標とされる。しかし、いかにして立ち直ったように見えたところで、愛する者が永久に帰ってこない事実は変わらない。修復的司法は、この厳然たる事実から逃避しようとする。人間の生死を扱いつつ人間の生死の問題から逃げる欺瞞は、肝心なところの議論を浅いものにする。

真理と幸福は、時に対立するものである。愛する家族を失った事実から立ち直ることが幸福であるとする理論は、遺族に事件のことを忘れさせようとし、裁判に参加させないようにする。しかし戦後60年における遺族の苦しみは、裁判制度の蚊帳の外に置かれたことであり、真理を知らされないことであった。遺族はこの中で情報公開に挑み、真理を知ろうとした。真理よりも幸福を重視する立場からは、真実を知ったところで悲しみを深くするだけであり、知ってどうするのか、戦ってどうするのかと問われている。しかしながら、ここでは、事件のことを忘れることは幸福につながっていない。人間は時には、幸福よりも真理を求めるものである。逆に、真理よりも幸福を求めることによって、結果的に不幸になることもある。

真理は普遍である。しかし、人間が普遍的観点から何かを語ろうとすればするほど、真理は遠のく。「厳罰化は真の解決にはならない」という言説は一人歩きし、被害者に対して精神的な二次的被害を与える。このような普遍的観点からの言説は、自分を客観化するふりをして、自分を棚に上げる。意識的に普遍を語ることは、自分が生きる上で必然的に考えていないこと、人生の中で感じていないことを語ることに他ならない。普遍的観点は、個に通じる言説の中で逆説的に表れるに過ぎない。被害者が「『厳罰化は真の解決にはならない』と言われてもどうしても厳罰を望んでしまう」と述べるとき、それは意図せずして普遍を示してしまっている。

自由主義、個人主義の思想は、真理の追求よりも功利主義に流れてきた。幸福はあくまで快・不快によって判定され、真理の追求と幸福とは相反する場面が多くなった。現代社会の流れはこのようなものであるとしても、この考え方で犯罪まで処理されてはたまらない。加害者は功利主義に乗って自己利益を追求し、自己中心的に少しでも軽い刑を求め、形だけの謝罪をする。修復的司法の考え方からすれば、被害者はこの形だけの謝罪にも心からの反省を感じて、加害者を赦して幸福にならなければならない。やはり真理よりも幸福を目的とするならば、肝心なところの議論が浅くなる。

ソクラテスの「善く生きる」という命題には、多様な解釈の余地がある。ただ、その中の1つとして、「幸福よりも真理を求める」という命題は、ソクラテスの言わんとしていることをかなり正確に映している。