犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

意識の不思議

2007-08-28 20:38:13 | 国家・政治・刑罰
人間の意識というものは不思議である。科学、宗教、哲学、どの分野にとっても解決不可能な謎である。「意識とは何か」と問うためには、意識がなければならない。「自分には意識がある」と気付くためには、自分には意識がなければならない。その意味で、「我思う、ゆえに我在り」と言ったのはデカルトではない。自分であり、すべての自我である。

意識は常に自分とともに存在し、一時も自分から離れることがない。朝起きても、他人の意識と入れ替わっていることはない。しかしまあ、何でよりによって、この意識が自分の意識なのか。人間は誰しもこの謎を抱えている。世界には65億人もの人間がいるのに、なぜか私の自我意識が存在するのは、「この私」である。永井均氏の表現を借りれば、<私>である。

私以外の人間には、「この私」の意識は絶対に存在しない。同じ親から生まれた兄弟であっても、同じDNAを持つ一卵性双生児の兄弟であっても、「この私」の自我意識は存在しない。このような驚きは、他人にも自分と同じような意識が存在していることを前提としており、独我論による解答では満足できないことを示している。独我論に頼らずにこの謎を解こうとすれば、答えは2つしかない。

1つには、神がこの意識を与えているという解決方法である。しかし、その人格神にも意識があるとすれば、その意識はいったい何なのか。その意識も人格的な意識だとすれば、「この私」の意識がその神の意識でないのはなぜか、この謎が解けない。これを無理に解こうとすると、「私が神だ」という新興宗教の教祖になってしまう。

もう1つは、意識が別々でありながら繋がっている、繋がっていながら別々であると考えることである。死者の意識はここにはないが、ここにある。未だ地上に存在せず22世紀に生まれるであろう人間の意識もここにはないが、ここにある。これがヘーゲルの「絶対精神」である。この悪名高い造語も、「自分には意識がある!」「他人にも意識があるようだ!」と気付いた瞬間の驚きを忘れると、単なる神の別名にしか見えなくなる。

「絶対精神とは、自己自身の外に根拠を持たない精神の本質が主観的・客観的段階を経て十全に展開され自覚に至ったものである」という講学上の定義も、意識の不思議を念頭に置きながら読んでみれば、その意味が何となくわかる。ヘーゲルは難解だと言ってしまえば、哲学を考える際に特有の視角の取り方が失われる。「我思う、ゆえに我在り」と言ったのはデカルトではないように、「絶対精神」と言ったのもヘーゲルではない。どんな哲学上の名言も、それを述べたのは自分であり、すべての自我である。

生きている人間は、殺人事件のニュースを耳にすれば、絶対に許せないという怒りを反射的に感じる。人間の意識の不思議が解けないのであれば、人間におけるこの怒りを抑えることはできない。殺人とは、人間の意識を消すことである。被害者の無念を推測した途端、それは恐怖から絶対不可解へと変わる。「殺人犯であっても罪を否認する権利がある」という刑法学の理論は、どう頑張っても哲学的に二流であり、社会において広く共有されない理由がここにある。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (qeb)
2007-08-29 11:13:12
「意識」と呼ぶのを止めたらどうでしょうか。「殺人」の意味も変わってしまいますが。
返信する
そうですね。 (法哲学研究生)
2007-08-29 16:28:58
心、内心、意識、自己意識、気持ち、精神、意志、意思、色々な名称だけは多いですね。qebさんが8月20日に述べていらっしゃったように、「魂」という単語が、「それ」を取り出すためには一番切れ味が鋭いと思います。その反面、誤解されることも多い語句ですが。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。