犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤原正彦著 『国家の品格』

2007-08-03 18:45:37 | 読書感想文
賛否両論の大ベストセラーである。このような本は、色々な読み方ができる。日本人は祖国への誇りや自信を失うように教育された結果、世界に誇るべき我が国古来の情緒を忘れ、市場経済に代表される欧米の合理主義に身を売り、国柄を失ってしまった。日本は今こそ、「国家の品格」を取り戻さなければならない。藤原氏におけるこのような主張において、この本を評価する人が多い。また、このような受け止め方において、藤原氏を批判する人も多い。

しかしながら、単に保守的であり、国家主義的である点が評判となったというならば、説明不足であろう。それならば、安倍首相の「美しい国」も、もう少し評判が良かったはずである。この時代、ミリオンセラーはなかなか生まれない。この本が多くの人々の心を引きつけた点は、やはり単なる保守志向に基づくものではない。「論理より情緒」、「民主主義より武士道」、このような従来の常識を逆転させるような本は、これまでにも沢山出ていた。それにもかかわらず、この本だけが異常な売れ方をしたのは、従来の常識に反抗するのではなく、その手前で止まっているからである。その意味で、「国家」よりも「品格」が受けたといえる。

「論理ではなく情緒のみが正しい」ということを実証しようとすれば、色々とデータやソースを集めて大騒ぎしなければならず、挙句の果ては「論理ではない」ということについて論理で証明する責任を負ってしまう。こうなると、いつの間に情緒全開で大喧嘩しているという事態になる。逆説的な理論は、必然的に論理が論理自体を正当化しているものであり、データやソースを集めて論争することを拒む。藤原氏が半ばこのような地点に立ってものを見ているのは、やはり同氏が数学者であり、数学には哲学的な面があるという点が大きい。2+3=5であり、ここまでは小学校で習う。しかし、この世の中で「2」を見たり聞いたりした人は誰もいないということは、なかなか気付かれない。数の美しさに魅せられた数学者の多くは、この点に気が付いている。

藤原氏が批判している「論理」を、ヘーゲルの『大論理学』などにおける「論理」の意味に捉えると、世の中は情緒だけで済むといった安っぽい教訓しか引き出せなくなる。これではミリオンセラーにならない。この本が多くの人々に共感を呼んだのは、同氏が批判していたのが「理屈っぽさ」、「屁理屈」といった類のものであったからである。どんな論理にも必ず出発点があり、出発点が間違っていれば、論理が通っていても結論は誤りとなる。これは、ヘーゲルの『大論理学』などにおける「論理」の意味にも等しい。論理は理屈を嫌うが、論理は情緒と整合し、品格とも整合する。すなわち、人間は、論理をそのまま生きることによって上品になるが、論理を対象化して利用しようとすることによって下品になる。

山鳥重著 『「わかる」とはどういうことか』

2007-08-03 09:53:53 | 読書感想文
「○○がわかる」という軽薄短小な本は数多いが、このようなマニュアル本ほどわかりにくいものはない。マニュアルを読んで、局所的に1つ1つの行為に集中している間は、全体の流れが全くわからなくなる(p.201)。「わかる」とは何かということを突き詰めれば、どうしても人間は言語に操られているという現実に気がつく。この地点に気がついてしまった人間は、「○○がわかる」という種類の本を余裕で無視するようになる。

言葉とは、対象を区別し、あるいは同定するものである(p.30)。言葉は、外在現象のみならず、心の内在状態も記号化することができる。これによって人間は、すべての心理現象を記号に変換する能力を手に入れた(p.50)。何でもかんでも「やばい」「あり得ない」としか表現できない人間は、言葉が貧しいのではなく、世界が貧しい。「セクハラ」という言葉が発明されていなかった時代には、日本にはセクハラ行為は存在していなかった。「ストーカー」という言葉が発明されていなかった時代には、この世にストーカーはいなかった。

人間は、単語を広辞苑によって覚えるのではなく、日常の経験の中で「抜き出して」ゆく(p.94)。定義は、後になってくっついてくるものである(p.87)。ところが、法治国家における法律の条文というものは、これを見事に転倒させ、法的安定性なるものを指向するようになる。その挙句の果てが、年金時効特例法(正式名称は「厚生年金保険の保険給付及び国民年金の給付に係る時効の特例等に関する法律」)である。時効によって消滅したはずのものを特例により消滅しなかったことにする法律であり、論理構成については色々と問題点が指摘されているが、要するにお金が欲しいということである。

法律の専門用語は、ほとんどが抽象名詞であり、数学的な無機質さがある。少なからぬ人間は、この無機質さに耐えられない(p.140)。一番人間的でなければならない言語が人間を疎外し、実際に法的救済を求めている人間を苦しめていることに気がつかない。素人の素朴な疑問とは、端的な異物感である(p.191)。これもやはり、言語を操ることによって言語に操られる人間の宿命である。素人は専門家に聞いて、「世の中はこうなっている」と教えられたところで、どうもわかった気がしない。かくして、専門家は無知な素人を「バカ」と呼び、素人は世間知らずの専門家を「専門バカ」と呼ぶ。

我々の心が扱えるものは心像のみであり、客観的事実ではない(p.15)。法解釈を巡って、多くの政治家が議論しているが、心像が異なる以上、答えが出るわけがない。自衛隊は憲法9条に反するのか。反すると思っている人にとっては反しており、反しないと思っている人には反していない。それだけのことである。自衛隊の合憲・違憲を決めるものは、それまでその人間が生きてきた人生である。「なぜ自衛隊は違憲無効なのに、現に日本に存在しているのか」と悩んでしまう人は、気が済むまで悩み続ければいい。