犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第13章

2007-08-01 15:25:53 | 読書感想文
第13章 逆転

岡村弁護士は、「犯罪被害者の権利」と「犯罪被害者の支援」という条文の差異に徹底的にこだわった。これは当然のことである。「権利」と言えば、その主語は犯罪被害者自身であるが、「支援」と言えば、その主語は犯罪被害者以外の者である。「犯罪被害者支援基本法」であるならば、犯罪被害者は従来どおりの客体にすぎない。これが、ソシュールやウィトゲンシュタインが明らかにしたように、2次的言語ゲームの恐ろしさである。言葉が世界を作る。「権利」と「支援」、このたった2文字の差が大きい。

近代刑法の原理を前提とする日本国憲法31条ないし40条を前提とする限り、「犯罪被害者の権利」という概念は、全体の整合性においては問題がある。これは、岡村弁護士が述べているとおり、法務省刑事法制課においては何よりの大問題である。これが専門家と一般人との絶望的な断絶であり、犯罪被害者の感じる法律の壁である。これも2次的言語ゲームの恐ろしさである。専門用語が体系的な世界を作り出し、それが完全に一人歩きして自己完結し、人間が生きているこの世界そのものを支配するようになる。

犯罪被害者や一般人が「こんな法律はおかしい」と感じたならば、それは端的におかしい。無知でも感情でもない。「私」という現存在(Da-sein)との関わりにおいて、世界は単にそのように存在しており、存在者は「私」に対して現象しているからである。一般人はこの現象をそのまま生きているが、専門家はこの視点を見失う。誰もが初めは一般人であったはずなのに、専門家はその時の人間的な視点を失ってしまう。そして、単なるフィクションであるはずの法律の条文のほうを客観的な存在であるとして、それが人間を苦しめても何とも思わなくなる。

平成16年12月に「犯罪被害者等基本法」が成立したが、それに基づいた被害者参加制度の議論は、政治的な対立に陥ってしまった。いずれにせよ、被害者参加制度には日本の刑事裁判の構造からして問題が生じるというならば、被害者参加制度に合わせて刑事裁判の構造を変えて行けばいいだけの話である。法律は絶対的なものではない。変えることのできない法律などないからである。犯罪被害者や一般人が「こんな法律はおかしい」と感じたならば、それは人間としての掛け値なしの真実の声である。これまでの刑事裁判の構造において欠けていたものに気が付いたならば、それを少しでも早く修正するのが法律というものの役目である。

森下伸也著 『逆説思考』

2007-08-01 10:38:54 | 読書感想文
逆説(パラドックス)とは、一般に正しいとされている常識的な見解に反しており、それにもかかわらず正しい見解のことである(p.16)。アキレスと亀、嘘つきクレタ人のパラドックス(p.37)も、単なるいじわるクイズ以上の謎がある。それは突き詰めれば、人間はどこであろうと、いつでも「今居るところ」に居るほかはなく、「今居るところ」に今居ないことは絶対に不可能であるという点に帰着する(p.178)。「無用の用」という逆説は、現在では単なるトリビアやうんちくとして、人生に楽しみを与えるツールとして捉えられることが多い。しかし、それを意図的に利用して役立てようとするようなものは、そもそも逆説ではない。逆説とは、すでに人間がそれをそのまま生きてしまっているものである。

愚か者は自分を賢いと思っているが、賢い人間は自分を愚か者だと思っている(p.66)。これは、社会問題を解決しようとして論争し始めると、議論のテーマが当初の課題とずれてしまい、「どちらの考え方のほうが優れているか」の争いとなる点に端的に表れている。逆説思考とは自己言及のことであり(p.42)、意見を述べると同時に、自分自身にツッコミを入れることである。これは損得の問題ではなく、論理の必然である。昨日までの常識は、今日の非常識である。そうであれば、今日の常識は、明日の非常識である(p.23)。歴史の経験から学び、それによって後世に対して真理を提示するという欲望は、どう頑張っても実現されないことがわかる。

「世の中が間違っている」と怒れば怒るほど、世の中は正しくならない。「社会がどんどん悪い方向に行っている」と危機感を持てば持つほど、社会は良い方向に動かない。「世の中が思い通りにならない」と嘆けば嘆くほど、世の中はますます思い通りにならない。「現在は人類史上最悪の時代である」と叫べば、まさにそのことによって、現在が人類史上最悪の時代となる。これは、予言の自己成就である(p.160)。同じところを回っているうちは、まだ損害は軽い。実際のところはさらに逆説的な状況が生じており、間違いや問題が発生して、それを減らそうとすればするほど、かえって間違いが増えている(p.230)。こうなれば、「社会問題を力を合わせて解決しましょう」という方向の議論は、自分自身の首を締めてしまうことになる。法律を細かくすればするほど抜け穴が増えてしまうのは、周知の事実である。

大衆消費社会においては、本来は娯楽のための「生活無用品」であったものが「生活必需品」となり、物欲の追求に積極的でない人間は、コミュニケーションの輪から疎外されるようになる(p.212)。哲学的指向を持つ人間には受難の時代であるが、ここで哲学が「無用の用」という逆説を示し始めるのが面白いところである。自分の生死について深く考えない人間は、いざという時に非常に弱い。今や裁判所は罪を償うための場所でなく、検察官と戦うための場所になっている。会社は「過労死しないための場所」となり、学校は「いじめられないための場所」になっている。この奇妙な状態を逆説の必然であると見抜けるか否かによって、人間の人生への距離の取り方は必然的に変わる。希望は絶望を生むが、絶望は希望を生む。社会運動の先には怒りと不平不満があるが、逆説思考の先には笑いがある(p.3、p.242)。