犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小西聖子編著 『犯罪被害者遺族』 第5章

2007-08-31 21:45:13 | 読書感想文
第5章 息子が生きていたら… 松田政美さん・幸子さんのお話

客観的な法律の条文に従って粛々と手続を進めるのが法律家である。それでは、裁判官や弁護士は、もし自分の娘や息子がそのような目に遭ったとしたら納得できるのか。これは納得できないに決まっている。法律家の一番弱い所である。それゆえに法律学は、客観性、公平中立性という建前によって、この弱点を隠す。公平中立たるべき法律家は、「もし自分の娘や息子がそのような目に遭ったとしたら」と考えてはいけない。考えないことによって、法治国家は維持される。その具体的な表れが、除斥や忌避といった制度である。

「同じ死ぬのでも死に方が違う。人の手によって無理矢理この世から連れ去られた」。少年3人による暴行で息子さんを亡くした松田さんはこのように述べる。これは、生と死の弁証法、自分と他人の弁証法が重なったところに表れるパラドックスである。同じ死であっても、病気の場合には、このパラドックスは表れない。犯罪による死だけが決定的に異なる。自分の意志でこの世に生まれてくることのできない人間は、他の人間の存在をこの世から消すことはできない。弁証法的に見れば、殺した本人が一番苦しまなければならない道理のものであり、自らが死ぬことによって償いたいという気持ちにならなければならない道理である。間違っても、「生きて更生することによって償う」という理屈は成立しない。

法律家に理解できないのなら、宗教家に頼ればいいのではないか。ところが、松田さんの例では、お坊さんも全く話にならない。お盆やお彼岸におけるお坊さんのありがたい法話で、「人間はいずれ死ぬ。早い遅いかだ」と言われても、松田さんは「早すぎじゃないか」と思ってしまう。当たり前である。お経が少しもありがたくない。お坊さんは「語りかけてやるのが仏への供養だ」と言っても、そもそも松田さんは息子さんのことを仏だと思いたくない。これも当然である。このようなありがたくない法話は、宗教の最も悪い部分の発現である。多かれ少なかれ、哲学なき“葬式仏教”では、このレベルが限界である。

病気による死と犯罪による死の違いは、前者の文法は「死ぬ」という単語を所有しているに止まるのに対し、後者の文法は「死ぬ」「殺す」という2つの単語を所有していることである。万人に共通の「死ぬ」という単語で語ることは、加害者を利することになる。遺族が受け入れられないのは「死んだ」ことではなく「殺された」ことであり、この両者は絶望的に異なる。周囲の人は「死んだ者は生き返らない」と言って慰めたつもりになっているが、「殺された者は生き返らない」とは言わないところが欺瞞的である。「いつまでも死んだことをクヨクヨしていても仕方がない」、「死んだ人が喜ばない」といった表現も、「殺される」に置き換えることはできない点で、全く慰めになっていない。「人間はいずれ死ぬ」は正しいが、「人間はいずれ殺される」は正しくないからである。