犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小西聖子編著 『犯罪被害者遺族』 第3章

2007-08-23 12:22:21 | 読書感想文
第3章 心の傷を深めるもの

犯罪被害者への心の傷はどのように深まってゆくのか。色々なノウハウばかりが発達した現代社会の構造が、この問題を無用に大きくしている。特に、専門家と言われる法律家、医療関係者、宗教家の対応が原因であることが多いようである。専門的なフィルターで物事を見て、その専門性に誇りと生きがいを感じ、それで生計を立てているのが専門家である。そのような専門家にとって、そこに持ち込まれた相談は、多くのケースの中の1つでしかない。相談者が人生を賭けて必死に話したとしても、専門家は人生を賭けて聞いてはならないし、実際に聞こうともしない。専門家が人生を賭けている対象は、その専門性そのものだからである。

被害者遺族が民事訴訟を起こそうとして弁護士に相談すると、「この事件ですとせいぜい100万ですね」「苦労のわりに得られるものが少ないですよ」などと言われる(p.82)。弁護士本人には全く悪気がなく、むしろ弁護士倫理からすれば、この上なく正しい行動である。被害者遺族が事件の話を聞いてもらいたくて医療関係者に相談に行くと、事件のことには耳を貸さずに、「うつだから薬を飲みましょう」「眠れないんだったら睡眠薬をあげましょう」などと返答される(p.84)。これも、具体的にどこが間違っているとは指摘できないだけに、歯がゆい気持ちだけが残される。宗教家に至っては、「それは水子の崇りです」「それは神様の決めた運命です」などという答えを押し付ける(p.85)。これは本人が自信満々であるだけに、非常に始末が悪い。

犯罪被害者の2次的被害については、それを防ぐために色々な理論が提唱されてきた。ところが、そのような「2次的被害を防ぎましょう」という態度の取り方こそが2次的被害を生んでいるのだという現実にはなかなか気付かれない。これもやはり、哲学的な問題を哲学抜きで捉えてようとしていることに基づく。専門用語を駆使する専門家から見れば、いきなり「人生」などという単語を持ち込む素人は、いかにも幼稚に見える。しかしながら、人生の問題は人生の問題でしかない。この世の出来事は、なぜか常に一回限りで我々人間を訪れる。いかに物事を客観化したところで、人間の主観性を消そうとしたところで、これが消えるわけもない。犯罪被害者の心の傷は、客観性、予測可能性、法的安定性を志向する法治国家の必然的な弊害である。これを法治国家の枠内で解決できるはずもない。

「判決はとても事務的なんだそうです。当事者が聞いていても、いったい何がどうなっているのかよくわからないような判決が15分で7本言い渡された。そのなかには交通事故の事件もあれば、その他の民事訴訟、土地を争っている事件とか、いろんな事件が7件入っているなかに自分のが1件入っている。自分のかけがえのない娘の事件がそういう扱いを受ける。法律の世界というのは実は私たちの常識とすごくかけはなれてる、と思います。たぶん弁護士さんや裁判官の方がこの話を読むとですね、『なに言ってんだ』と思うと思うんです。そういう方たちにとってはすごく常識的なことを私たちは知らない」(p.104~106より抜粋)。

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