犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

子どもの人権論

2007-08-26 14:22:30 | 国家・政治・刑罰
国家主義的であるとして評判の悪いヘーゲルであるが、その著作の中では、子どもが自由な存在であることを繰り返し述べている。これも、弁証法の考え方を通してみなければ、何が何だかわからない。ヘーゲルは、子どもの教育について、否定的な使命があると論じている。これは、単なるマイナスという意味ではない。大人は子どもを教育すればするほど、子どもは立派な人間として自立するようになり、いずれ教育が不要になるという事実である。こうして子どもは大人になり、次の世代の子どもに対して、また同じことを延々と繰り返す。世の中はどういうわけかこのようになっている。弁証法とは、この単純な論理の記述である。

子どもの権利条約に代表される子どもの人権論と、ヘーゲルの弁証法との決定的な違いは何か。それは、人生は一度きりであり、取り返しがつかないという恐るべき現実を常に捉えているか否かである。子どもは親を選べない、これは容易にわかる話である。これに対し、親も子どもを選べないことは、なかなか気付きにくい。子どもが親の所有物であることを前提とするならば、革新派による子どもの人権論と、保守派による家庭教育の重要性を説く立場とが対立するのも当然のことである。弁証法は、このような対立の土俵自体を見下ろす。ヘーゲルが子どもは自由な存在であると述べるとき、それは親が子どもを選べないという単純な事実を指している。

子どもの人権論や、家庭教育の重要性を説く理論は、それが政治的であるゆえに、人生の文法を決定的に取り逃がす。政治的な意見は、その主義主張が完全に実現する社会を目指して徹底的に闘うべきだとのイデオロギーになり、事態は長期戦の様相を呈する。しかしながら、子どもの人権論を15年間にわたって唱え続ければ、15年前に5歳であった子どもは、もはや成人している。理想の社会がなかなか到来しない、現在は過渡期であると言われてしまっては、その間に一度きりの人生の子ども時代を送ってしまった人間の立つ瀬がない。子どもの人権を守ることを社会の絶対的な目的とするならば、その子どもが大人になった時には、次の世代の子どもの人権を守ることが目的となり、堂々巡りとなる。これは弁証法の逆立ちである。「子どもが大人を否定する」という事実の記述ではなく、「大人は子どものために生きなければならない」という当為の主張になっているからである。

弁証法における否定とは、「あってはならないものを撲滅する」という話ではない。否定とは、“否定の否定”として肯定となり、さらには“否定の否定の否定”として否定となる。この弁証法の考え方を通してみれば、「大人」も「子ども」も単なる便宜上の肩書きにすぎないことがわかり、その根本における人間、さらには人生という存在の形式が捉えられてくる。最初から大人と子どもの二分法からスタートし、子ども独自の権利を考案するような政治論は、入口からして人生を見失っている。少年法の厳罰化をめぐる一連の議論も、この「子ども」という肩書きを外して、人生の存在の形式において捉え直してみれば、事態はかなりすっきりする。子どもは数年すれば成人になるという当たり前の弁証法を見失えば、子どもの人権論だから少年法の厳罰化に反対だと叫んでいるうちに、自分の人生が終わってしまう。