犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

家族とは遺族である

2007-08-06 14:51:16 | 国家・政治・刑罰
このブログにおいても、我が国の犯罪被害者保護法制においても、区別しなければならないとわかっているのになかなか区別しにくい概念がある。それが、「被害者」と「被害者遺族」である。遺族も広く「被害者」に含められるのではないかという定義の問題、何親等の人間までが「遺族」と呼べるのかといった問題は、人為的に決めておけばよい。法律家が得意な分野である。しかし、絶望的に難しい問題は、このようなものではない。「何をどうすべきである、こうすべきである」という主義主張は気楽である。これに対し、「何故だかこうなっている、こうあらざるを得ない」という記述は不気味である。

世の中における社会問題の類は、煎じ詰めれば、「死ぬのが怖い」という一語に集約される。犯罪被害者保護の問題も、このような文脈で捉えられる限り、突き詰めれば「死ぬのが怖い」という点からの逆算によって決められてくる。「被害者への心のケア」と「遺族への心のケア」を同列に論じている議論などは、この逆算の典型的なものである。生死を直視せずに生死を語ると、あっという間に壁にぶつかる。いかに心のケアを充実させたとて、死者は戻らない。残された者は、立ち直っても寿命が来れば死ぬし、立ち直らなくても寿命が来ればやっぱり死ぬ。人間の生死は、心のケアなどでは何ともならない。

社会問題の文脈における社会とは、この日本社会、あるいは国際社会を意味する。情報化の進展によって、世界は狭くなった。しかし、今も昔も、人間はこの社会に生きるという形でしか社会と関われない。その意味では、この世界は絶望的に狭い。現に人間は、会社でリストラに遭えば、それがこの世の中に無数にある会社の1つに過ぎないにもかかわらず、簡単に自殺する。学校でいじめに遭えば、それがこの世の中に無数にある学校の1つに過ぎないにもかかわらず、簡単に自殺する。これは不思議なことではない。世界は、自分と反転するしかない。有史以来、人間は同じことを繰り返してきたが、この自分の人生はこの1回でしかないからである。

「被害者遺族」の問題は、個人主義の枠組みでは、一見して手に負えない。家族を語らずに遺族を語れるわけがないからである。「家制度」を目の敵にしてきた戦後日本の法律学が「被害者遺族」の問題に切り込むためには、やはりヘーゲルの家族論が参考になる。家族とは、遺族である。神や仏を信じない人間も、先祖だけは信じざるを得ない。もし自分の先祖の誰かが欠けていれば、少なくとも自分は今のこの自分としては存在していなかったからである。人間は、一度も会ったことのない曽祖父母の法事をしたり、墓参りをしたりする生き物である。先祖の側も、自分の死後のひ孫になど会ったことがなく、お互いに話したこともない。にもかかわらず、人間は先祖を敬い、その墓参りをする。この不合理が、そのまま存在の論理を示す。その意味において、すべての家族は遺族である。法律による「家制度」の解体など、ほんの一部分の解体であることがわかる。